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ドクター・ピュアガール
[3]
受け止めて、空の雫


[1]/ [2]-前編 -中編 -後編[3]NWしおり


 初老の紳士が部屋に据えられたシャーカステン * の前に進み出た。彼が何枚かのフィルムをクリップに挟みこみ、聴衆に向き直るとそれまでざわついていた室内はしんと静まり返った。
「さて、諸君」
 人に指図することに慣れた声音だった。白衣からのぞくワイシャツの襟はぴんと糊がきいているし、白いものが混じり出した頭髪はきちんと整えられている。一糸乱れぬいでたちの紳士は、その外見を裏切らない鷹揚な口調で話し出した。
「Image Reading(読影 * )により、このクランケにはごくごく初期のマーゲン・クレブス * が見とめられました。術前診断では幽門側胃切除 * が適切だろうと、我々は判断しております……」
 彼は自らに視線を注いでいる聴衆の中から、その“術前診断”を下した医師の顔を探した。が、生憎なことに紳士の探す人物はどこにも見当たらず、彼の言葉の語尾は引き取り手を失って宙を漂った。
 さてはサボタージュか、はたまたボイコットか。紳士は銀縁めがねをずり上げ、眉間にしわを寄せて難しい顔をした。オペを引き受けたがらない件の医師を『君しかいないのだ』と半ば強引に説き付けたことは記憶に新しかった。だが、気が進まないからといって自分が執刀医を引き受けたオペのカンファレンスをすっぽかすことはないではないか。
「放射線や化学療法による治療 * もご検討なさったのでしょうね? 河田先生」
 沈黙をいいことにすかさず質問が上がった。声を発したのは部屋の窓際、最前列に席を占めた壮年の男だった。なるべく穏やかに話そうと心がけているようだが、言葉の端々からはみ出す挑戦的な態度は隠しようもない。男は遠慮する気配も見せず質問を重ねた。
「開腹手術はクランケには重荷だ。初期ならなおさら、切らずに治したいと考えるのは人情でしょう。それでも外科術に踏みきるとおっしゃる。その根拠は何ですか」
「ハハハ……。近ごろ、胃癌に対する新しい放射線治療法でもご報告されましたかな、小野寺先生」
 放射線医のあなたにはわからないかもしれないが、現代のクレブス治療は外科手術が基本なのだよ。そう言ってやりたくなるのを紳士は辛うじてこらえた。
 この男の攻撃的な態度は今に始まったことではない。事あるごとに彼は、Y市立大医学部で主任教授の教鞭をとるこの自分に突っかかってくるのだった。若くして助教授の座に収まった実力を認めないわけではなかったが、しかしこんな物言いをされて黙っている筋合いはない。
 河田教授は聞き分けのない学生に向けるのと同じ、憐れむような軽んじるような視線を小野寺助教授に投げ、つくづくと考えた。小うるさい小野寺の面前で行われる公開オペ。その執刀医を務めることができるのはやはり彼しかいない。
 だがその人物は未だ姿をあらわす気配はなかった。河田教授は今さらながら不安に襲われた。技術面において彼の人選は正しいはずだったが、メンタル面においてはどうもそうとは言いきれないようだった。
 
「せ、先生……、やめてください……」
 一応は昼間である。その証拠に、狭苦しい処置室は窓から差し込む陽光に明るく照らされていた。窓際の机にはクランケの気持ちを和らげるのに使われる浜崎あゆみや平井堅のCD──彼らの笑顔が刷られたCDジャケットはいくぶん退色していたが──が山と積まれている。その横にはつや消しのシルバーでコートされたCDラジカセ。机に立てかけてある折り畳まれたストレッチャーの手すりがぎらりとした金属光を放っていた。
「やめるって、何をだい?」
 ふるえるナースキャップを尻目に彼はしらっととぼけて見せた。だが、自分の腕の中で必死に抵抗する気概に敬意を表し、人影は力にまかせて彼女を壁に押し付けていた体をすっと後ろに引いた。
「君は化粧が薄くていい。看護師の女性は化粧の濃い人が多いだろう? あれには正直なところ、辟易していてね」
 そんなことを言っておいて、雨宮透はにやにや笑いを浮かべた唇を手の甲でぬぐって見せた。低音のささやき声、細めた目。整った顔つきはそれが本人の意図するところなのか、どこか酷薄な雰囲気を漂わせている。看護師の境原アサミは彼の長身に見合う長い腕からやっとの思いで逃れ出ると、猫背ぎみの背中をぐったりと白壁にもたせかけて大きなため息をついた。
「どうしてわたしにこんなことを……雨宮先生? わたしなんか美人でもないし、相手をしていて特別、面白いわけでもないでしょうに」
 アサミは先ほど、禁じておいたにも関わらず患者が嫌がって引き抜いてしまった導尿カテーテル * を元の通りに挿入し直したところだった。その間ずっとその爺さん──失礼──患者の繰り言にいちいち相槌を打っていなければならなかった。大体において彼女はきめ細かな気配りを怠らない優秀な看護師だったが、それでも患者の不条理な感情(わがままとも言う)に付き合うのは骨の折れる仕事だった。
 爺さんの相手が終わったと思えば、次は鼻持ちならない自惚れ屋の外科医の相手だ。だが彼女の苦渋などどこ吹く風といった体で自惚れ屋は言った。
「女性の化粧は医局の教授どもがわんさと取り巻きを連れて病院の廊下を練り歩くのと本質的には同じさ。奴らは自分を飾って見せてなきゃ不安でたまらないんだ。
だが、君は違う。君は自分の役割をわかっていて、それをこなしてる。的確に、率直にね。だから不安に翻弄されたりしない」
 そんなことはない。そう反論しようとしてアサミは口をつぐんだ。雨宮医師の言葉はどこまでが冗談でどこからが本気なのかわからない。皮肉っぽくて芝居がかった彼の物言いが彼女は少し怖かった。その一方で、彼と合わせた唇の感触が未だに記憶の隅に残っていた。揺れる心の裏返しにアサミは彼をにらみつけた。頬が熱かった。
「俺は君のその芯の強さが好きなのさ……おっと」
 雨宮は突然、言葉を切った。彼は白衣の胸ポケットからマナーモードにセットしてあったPHSを取り出し、液晶画面をちらと一瞥するとさっさと電源を切ってしまった。雨宮医師は考えた。これだから公開オペなんざお断りだと言ったのだ。全くもってつまらん。何とも厄介な出来事に足を突っ込む羽目になってしまったものだ……。が、結局のところ、彼はゆっくりと踵を返し、アサミに背中を向けた。
「やれやれ、お召し出しだ」
 本心を裏切る快活な口調でそう言うと、狭い室内に並べられた机と椅子の間を窮屈そうに通りぬけ、雨宮は処置室を出ていった。バタンと扉が閉まる音と同時に彼の背中が見えなくなると、アサミは傍にあった回転椅子にくたっと腰を下ろした。
「……カンファなんかさぼるって言ったくせに」
 雨宮医師はずけずけと物を言う人間だった。アサミは彼のそういったペースに巻き込まれるのを迷惑に感じていたはずだった。だが今、喉の奥で押し殺したようなあの笑い声が再び聞こえてくるのではと彼女は耳をすましていた。もちろん扉の向こうからは何の物音もしない。傍若無人な立ち居振舞いをする分、彼は去った後にいつもこんな気抜けた空気を残すのだった。
「スチャラカなのか律儀なのか、本当によくわからない人ね。あなたって」
 アサミは気を取り直して回転椅子から立ち上がった。こんなところでぼんやりしている間にB病棟に出向いて西中島さんの様子を見なければ。それから爺さん、いや、和石さんの採血。わたしは目が回るほど忙しいのだ──そう考えつつ処置室の扉のドアノブに手をかけて、彼女は雨宮が自分を好きだと言ったことに思い至った。
 冗談に決まっている。彼のあの顔つきを見たでしょう?
 そう自分に言い聞かせてもなお全身がかあっと熱くなり、看護師は思わず立ち止まった。
 部屋の窓から差し込んでいた陽光は既になく、薄ぼんやりした灰白色の光に室内は満たされていた。柏の木が乾いた葉を空に向かって差し出しているのが窓から見える。程なく雨が降り出すだろうことは容易に想像がついた。





 最近、純先生はきれいになった。
 更衣室でナースウェアに腕を通しながら、看護師の橋本美香はついさっき職員専用の出入り口ですれ違った静川医師の顔を思い出していた。
 美香の会釈に「お先に」と返すハスキーボイスも、軽く右手を挙げてみせる仕草も相変わらずぶっきらぼうで愛想がなかったが、そばかすが散った彼女の化粧っ気のない頬はうっすらと上気していてやわらかそうで、まるで百合の花弁──病院を訪れる見舞い客がよくたずさえてくる──のようだった。
 (哲くんに情報提供料を請求しちゃおうかしら)
 静川純の匂い立つような変化に得心しつつも、軽いやっかみを感じて彼女は胸の中で呟いた。
 患者の立場でありながら静川医師を意中の人と定め、彼女を求めて果敢、というより無謀なアタックを仕掛ける青年、星野哲郎に美香はシンパシーを覚えた。彼に純の勤務スケジュールを教えたり、病院での様子を知らせたりと何かと世話を焼いたのは、要領の悪い二人を彼女なりに応援したかったからだ。もちろん、はたで見ていると面白いから、というのもはずせない大きな理由のひとつなのだが。
 慣れた足取りでナースステーションにやって来た美香を迎えたのは、申し送りを済ませて早く仕事を上がろうとじりじりしている先輩看護師の田原さくらだった。さくらは腕時計をつけた左手首を胸の前に構え、ぽんぽんと叩いて見せた。はやくしてよ! 急いでるのよ! という意味のブロックサインだ。後輩は彼女に小さく敬礼を返した。かしこまりました、先輩! というわけだ。
「……もしも痛みを訴えるようでしたら、上川さんにはボルタレン * が出てますので。それから、本日17時より207号室の阿部さんの緊急オペがあります」
 ナースステーションのワークデスクで早速始まった申し送りはさくらの流暢な説明のおかげですんなり終わると思われた。が、美香は早口でリズムよく流れる先輩の言葉を申し訳なさそうにさえぎった。
「緊急って、何か異変でもあったんですか?」
 先輩看護師の代わりにいつも笑顔を絶やさない看護師長の鳩山シズエ女史が横から説明する。
「昨日、急きょ通達が回ってきてね。公開オペをすることになったの。執刀も外部の先生がなさることになったから。ええと、何て言ったかしら? Y市立大病院の……」
 おっとりした物言いにだまされて鳩山師長をあなどってはならない。美香は横目で師長に、次にさくらに目をやった。先輩がこの上司を内心で怖がっていることを彼女は知っていたのだ。まあ、怖がるのも無理はない。何しろ鳩山師長の微笑は患者が泣いてもわめいても、もんどり打ったとしても翳ることはないのだ。今も、患者が痛がって泣き叫んでいるのも省みず、「ほほほほほ……」と嫣然たる笑い声をたてて左腕に翼状針 * を突き刺している姿が目に浮かぶようである。
「雨宮先生です、師長」
「そうそう、そうだったわ」
 控えめな口調でフォローを入れるさくらにうなずき返し、彼女は申し送りの資料に目を落とした。
「だから阿部さんは今夜、明日と絶食の指示が出ています。その他、詳しいことは雨宮先生に確認してみて頂戴」
「……以上です。それでは、今夜もよろしくお願いします」
 一同は席を立った。不覚にも美香は雨宮医師に面識がなかった。が、情報を得ようにも申し送りを終えた途端にさくらはあっという間に姿を消してしまった。ふと窓の外を見ると、青信号が点滅している横断歩道を突っ走って渡る先輩看護師の後ろ姿があった。みるみる遠ざかる背中に彼女はそっと独りごちた。どんな用事があるのかは知らないけれど、田原先輩ったらまさか窓から出ていったんじゃあないでしょうね……。
 雨宮先生、か。壁に張り出された医師シフト表を見つめ、美香は記憶の底を掘り起こそうと試みた。確か消化器科専門の外科医で、非常勤医師として時たまこの病院でオペを引き受けているらしいが、なかなか腕が立つという評判は聞いたことがある。そう言えば、純先生と同期だとか。
「橋本さん」
「はい?」
 彼女はあれこれと思いをめぐらせるのを中断して視線を上げた。微笑をたたえた鳩山師長の丸い顔がそこにはあった。
「阿部さんね、オペが不安なみたいなの。やっぱり急に決まったことでしょ? 戸惑ってるみたいで。ご家族ももうすぐお見えになると思うんだけど、術前に一度、顔を見てあげてね」
「はい」
 部下は上司の指示にうなずいた。数日前に入院してきたひとりの患者の顔が脳裏に浮かんだ。でも……。オペが不安……ねえ。
 思いに耽りながらも美香の手はすぐさま動き始めた。看護師の7つ道具をそろえて身につけ、最後にステート * をポケットにしのばせると、彼女はナースステーションを出ていった。
 
「阿部さん、今日のオペに関して何かご質問はありますかな?」
 オペスタッフをひとりひとり紹介した後、河田教授は自信に満ちた顔でクランケに向かって微笑みかけた。あまり広いとは言えない病室には公開オペを見学する講師や助手、看護師たちが集まっており、窓際に置かれた小ぶりのフラワーアレンジメントもふとしたはずみに床になぎ倒されそうなほどの混雑ぶりである。医学生達がここに詰めかけていないのはせめてもの救いであった。
 病室を占領する人ごみの中心にはちんまりとスチール製のベッドが据えられていた。上方向に軽くリクライニングされたそれに、痩せた初老の男性がぐったりと全身をあずけている。ベッドの足側の柵には極太のマジックペンで“阿部一利”と書かれた名札が取りつけられていた。
「……いいえ……」
 ため息のような声が返ってきた。だが答えがイエスであれノーであれ、教授が次に発する言葉に大した違いはなかっただろう。
「胃カイヨウなんて普通なら内視鏡 * で取り除くものですが、あなたの場合は出血性胃潰瘍 * と言いまして。まあ出血性胃潰瘍にも色々あるんですが、内視鏡での止血では不充分なのです」
 内視鏡、という言葉を発しながら彼は右手の人差し指と親指とで何かをつまむようなジェスチャーをし、周囲のオペスタッフにうなずいた。スタッフ達がささやき交わす声が細波のように辺りに広がり、部屋から溢れ出て開け放した戸口近くに立っている者は何事かと首を伸ばす。
 (うわあ、最低)
 ナースステーションから歩を進めてやって来た美香は廊下からこの様を見てこっそり呟いた。こんな大勢で術前の患者さんのところに押しかけるなんて。
 とは言え、彼女としては大学のお偉方たちが立ち去るまで待つより他に仕方ない。美香は部屋の扉に近づき、熱心にノートを取っている若い男の隣に立った。人の頭の生垣の向こうで初老の紳士が患者に話しかけているのがかろうじて見える。
「そういう理由で開腹手術を行うわけです。しかし心配は要りませんよ。難しいオペではないですし、何と言っても執刀の雨宮先生は若手のホープです。大船に乗ったつもりでいてください」
 とうとうとしゃべり続ける紳士の横で、長身の男がしかつめらしくお辞儀をしてみせるのを、おや、と彼女は見咎めた。してみると彼が噂のY市立大病院の先生に違いない。
 患者は顔色のあまり良くない面を伏せ、掛け布団の上で組んだ自分の手を見つめていた。阿部氏の第一印象を美香は思い出した。彼の線の細さは一目で彼女に“癌”を連想させた。美香が笑顔で話しかけたり体調をたずねたりすると患者は薄い唇をわずかに動かし、吐息のような声で返事をした。引っ込み思案のおとなしい人となりは、家族が彼に病名を告知しないことを選んだ理由を物語っているようであった。
「では、阿部さん。後ほどオペ室でお会いしましょう」
 河田教授は親しみをこめてそう言い、207号室を出ていった。その後をぞろぞろと彼のお弟子さん──彼女にはそう見えた──が続く。その中には雨宮医師と目される人物も混じっていた。彼はまじめくさった表情で看護師の傍らを通り過ぎていった。
 先ほど鳩山師長はああ言っていたが、患者の不安の原因はオペだけではないはずだと美香は感じていた。自分が病名を偽られていることを察知したために阿部氏は不安がっているのではないだろうか。加えて今回の公開オペである。単なる胃潰瘍のオペにどうしてあんな大量の見学者が集まるというのだ。
 彼に何と声をかけたら良いのだろう。頭を悩ませつつ病室に足を踏み入れようとした彼女は、ひとつの影が先ほどの医師団から離れてこちらにやってくるのに気づいた。
 リズミカルな足取り、ひるがえる白衣。──人影は雨宮医師だった。先ほどのかしこまった様子は消えうせ、唇にはどこか酷薄そうな、嘲笑めいた笑みが浮かんでいる。彼は看護師の前で立ち止まり、ポケットに左手をぐいと突っ込んで言った。
「これからムンテラ * なんだが、一緒に来てもらえるかい?」
 そんなことを医師から言われた経験はついぞない。驚いた彼女はオウム返しに反問した。
「一緒に!? あたしが!? でもムンテラはさっき終わったんじゃないんですか?」
「なら、言い直そう。インフォームド・コンセント * に一緒に来てもらえるかな?」
 彼は美香のネームプレートにちらと目をやった。
「それとも、医師の仕事は医師がやればいい、自分は関わらない……君はそういう手合いの看護師かい? 橋本さん」
 これがお医者のセリフだろうか。あまりにあけすけな物言いに彼女は当たり前のように気を悪くした。だが同時に興味もわいた。彼は一体どんなムンテラ、いや、インフォームド・コンセントを行おうというのだろう。
「もちろん、そういう考え方もありでしょうけれど」
 看護師の瞳が医師の視線をはじき返した。彼女はまるで挑戦するように雨宮の前に立ち、207号室の扉に手をかけた。
「あたしがついていないと、先生は患者さんを泣かせちゃったりしないとも限らないわ。ですから患者さんのためにあたし、ご一緒します。……さあ、どうぞ。雨宮先生」
 
 “自分はまだやれるのに” その思いがいつまでたっても胸から消えなかった。
 定年まで勤め上げるつもりだった会社は冷たかった。定期検診で再検査が必要と診断されたことが知れただけで彼はリストラの対象にリストアップされた。それにショックを受けたこともあって体調が不安定になり、会社を休みがちになった。そんなある日、人事部長がこう声をかけてきた。
「阿部さんは十分、社に貢献なさった。だからもういいんじゃないか? 今なら見舞い金代わりに退職金にもイロがつくことだし」
 再検査の結果は胃潰瘍。だが入院の上、手術が必要だという。幸い即刻の退職を迫られはしなかったものの、信頼関係を積み上げてきたクライアントの担当を若手社員に引き継ぐことになった。
 くやしかった。情けなかった。次に、大学受験を控えた息子と妻に申し訳ない気持ちがみるみる湧き起こってきた。つまらない病気をしてしまった自分の運の悪さを呪ったりもした。そう、胃潰瘍。こんなつまらない病気。
 つまらない。つまらない。つまらない……。
 ノックの後、かちゃりと扉が開くと見覚えのある看護師が入ってきた。彼女は「失礼します」と患者に笑顔を向けると、次に促すように背後に向かってうなずいた。
「先ほどはびっくりなさったでしょう? 大学院の医学研究科なんて先進的なようでいてその実、慣習で動く面倒なものでしてねえ」
 看護師に続いて部屋に入ってきたのは主治医の雨宮医師だった。彼は悪だくみをこっそり告げる少年のように声をひそめ、喉の奥で笑い声を立てた。
「しかし、面倒だからと言ってすべての慣習を廃止してしまうのもなかなか難しい。そこで僕らは教授回診とは別に、こうして患者さんの元を訪れる。建前と本音のバランス取りってやつですよ。うまく出来てるでしょ?」
「先生、あの……!」
 医師の言葉をさえぎるように阿部氏は声をふり絞った。河田教授には言い出すのがはばかられた質問を彼はやっと口に上せることができた。
「この前お伺いしたことは、その……どうなったんでしょうか」
「ああ」
 医師の傍らに立つ看護師は好奇心にかられ、つい彼の表情をちらりと盗み見た。だが雨宮は唇に浮かべた笑みを曇らせもしなかった。
「阿部さんはご自分の病名について不信感を持っておられる。そのことをご家族には相談しましたか?」
「それが……」
 阿部氏は視線を落とした。いつものぽそぽそした喋りに戻り、彼は言った。
「お父さんの考えすぎだ、余計なことは気にせずに手術をがんばってくれと、妻は……」
 よくある話、よくある家族の反応だ。内気な男は口の中で呟いた。
「……でも先生、私は……。私は、本当のことを知りたいんです……」
「あなたには確かに知る権利があります。ですがねえ、阿部さん、あなたはご家族を大切に思っておいででしょう?」
 何をいまさらと阿部氏はうなずいた。
「ならば」
 雨宮の顔から酷薄そうな笑みが消え、彼はフイとまぶたを閉じた。次に目を開いた時、表情は明るい自信に満ちていた。
「ご家族を信頼しなさい。家族が自分をだましているなどと考えるのはやめて、ご自分の病名なんか全く気にもならない、そういう顔をしていなさい。そうして、家族が万が一泣くようなことがあっても、涙など笑いとばしておやんなさい。
あなたの病名は出血性胃潰瘍です。この僕が保証しますよ」
 クランケは息を詰めて医師の言うことに耳を傾けていた。彼の言葉が切れると阿部氏は胸の底にたまっていた息を時間をかけて少しずつ、ゆっくりと吐き出した。重苦しい沈黙が流れた。やがて掛け布団の上にぽつ、ぽつと雫が滴り落ちていくのを見、雨宮は肩をすくめた。
「橋本さん、君の取り越し苦労が本当になっちまったらしい」
 彼の横顔が美香の目に映った。口の片端をゆがめたお馴染みの皮肉っぽい笑顔だ。
「……ここから先は君たち看護師の領分だ。よろしく頼んだぜ」
 あまりにあっさりした雨宮医師の引き際に彼女はその意図を図りかねた。が、彼の思いのほか真剣な眼差しに気づくと、「はい」とうなずいた。よろしく頼むという言葉が雨宮の本心であることを美香は悟った。
 彼は看護師の右肩にぽんと手を置き、白衣をひるがえして足早に病室を出ていった。彼女は雨宮が去った後の病室の扉を見つめ、程なく患者に視線を戻した。阿部氏は濡れた顔をけんめいに手の甲でぬぐうと呟いた。
「騙されているのを知りながら、それに気づかない振りをしろと言うんですか。それどころか、騙されていることを気にもするなと言うんですか」
 彼はぽそりと恨み言を付け加えた。
「どうせあなた方にとっては他人事。だから雨宮先生もあんなことを平気な顔で仰るんだ。そうでしょう? 看護婦さん」
「それは違うわ」
 看護師としてはやや我が強い性格である美香は患者の言葉をつい言下に否定した。鳩山師長がいたらお目玉を食らうところだが、心痛の男を患者扱いすることは却って彼をないがしろにする行為なのではないかと思われた。
「……あら、雨」
 いつの間に降り出したのか、病室の窓の外では柏の葉がぱたぱたと音を立てて雨だれに打たれていた。そろそろ時計の針は夕刻にさしかかろうとしていたが、今日のこの空模様では夕焼けは望めまい。どころか、日没までまだ間があるというのに辺りはすっかり薄暮に満たされていた。壁にある照明のスイッチに手を伸ばそうとして美香は思いとどまった。ほの暗い薄闇が患者の全身を包み込み、濡れた顔をすっぽりと覆い隠していたからだった。
「人間万事、塞翁が馬、って言葉がありますよね?」
 彼女は一語一語、確かめるように言葉を紡いだ。家族の許諾なしに真実を語る権利を持たない雨宮医師は、出来得る限り患者の疑問に率直に答えたのだ。それは彼なりの精一杯の誠意だった。次は美香の番である。彼女は看護師として、自らの病気──おそらくは癌──への不安に押しつぶされそうになっている患者の気持ちを何とかして前に向かせなければならなかった。
「ね、阿部さん。病気になってしまったのは残念なことだけど、でも手術をして治ることが出来るって先生が言っているのなら大いに希望を持つべきなんじゃないかしら」
 箱からティッシュを引き出す気配。次に、鼻水をふき取るちーんという音が勢いよく耳を打った。彼は何度もティッシュを箱から引っ張り出し、鼻やら目やらを繰り返しぬぐった。美香は窓際に歩み寄り、外を眺めた。そぼ降る程度だった雨はだんだんと勢いを増し、柏の葉を打つ音は“ぱたぱた”から“ばちばち”へと変わりつつある。
「それに雨が降ってるもの。雨宮先生には“雨を呼ぶ外科医”っていう通り名があるんです。理由は先生が雨男だから。でね、雨降りの日に先生がメスを握ったら、百発百中でそのオペは成功するってジンクスがあるんですよ。だから……ほら。阿部さんって実は、ものすごく運が良いんじゃないかしら?」





「クランケは57歳、男性。血液型A型。外来でステージIのM癌 * と診断。本日は迷走神経温存式の幽門側胃切除術 * を行います。僕は執刀を担当する雨宮です。皆さん、よろしくお願いします」
 集音マイクはオペ室の音声だけでなく、ぴりりとした緊張感をもオブザベーションルームに伝えてきた。青いオペ着をまとったスタッフ達が雨宮医師に答えて軽く礼をするのをガラスごしに観察しつつ、小野寺助教授は肱掛付きのソファに深々と体を沈めた。
 外科医の奴らは皆とにかくクランケを切り刻むのが好きなのだ。ステージTのちょっとした悪性腫瘍にもオペ。生い先がそれほど長いとも思えない老人にもオペ。そもそも外科医の頭の中には切る以外の治療法などあるまい。
 彼がプライベートな場で漏らしたそういった発言のひとつを、外科学教室の河田教授があてこすったのが発端だった。曰く、放射線科医は外科術を知らなさ過ぎる。外科医がそれはもう慎重に診断を下し、その上でクランケにメスを入れていることを認識すべきだ、というのだ。そのあとはお定まりの売り言葉に買い言葉である。じゃあ先生のおっしゃる外科術とやらを教えてもらいましょうか。もちろん教えるとも。現場に来て好きなだけ見たまえ、というわけだ。
 見学者達の思惑をよそに雨宮医師の手の中で電メスが躍った。ぱっくりと口を開いた術創を見下ろす位置から指をさし、河田教授は群がる医学生たちに何やら講釈を垂れている。
「Vagus Nerve(迷走神経 * )温存による具体的な効果を説明できる者はいるかね。柳川くん、どうかね?」
「はい。……ええと、下痢の予防や胆道の機能の温存が可能になるので、結果的には患者さんのQOL * を向上させることができます……」
 あれでわたしにいい所を見せているつもりなのか、河田教授は。
 指名された医学生が頬を紅潮させて必死に問いに答えているのを横目で意地悪く眺めた後、小野寺はそういった周囲の騒音を頭から追い出し、ガラスの向こうに意識を集中した。雨宮というのはエキスパートならしいが、ここに足を運んだだけの価値がある術技を果たして見せてくれるのだろうか。
 オペは順調に進行しているようだった。メスがクーパー * に素早く持ち替えられる。曲がった刃先が大彎(だいわん * )の下に潜り込み、引き出されたと思うと再びぬるりと沈みこんだ。雨宮医師もスタッフ達も時々事務的に言葉を交わしては手先を単調に動かしているだけで、一見ごく簡単な作業を行っているだけのように見えた。だが、簡単そうに見えることこそ実はやってのけるのが難しいのだ。小野寺助教授にしても、専門分野は違えど骨身にしみて感じていることだった。
「小野寺先生、どうだね? 雨宮先生のオペは」
 医学生たちの喧騒の輪からやっと逃れて河田教授がやってきた。得意そうな彼の口ぶりが気に障った小野寺は、喉まで出かかっていた賞賛の言葉を飲み下した。
「さあ。わたしには外科の術技はよくわかりませんが、あんなものなんじゃないんですか」
 河田の笑顔が強張った。あんなもの、だって? まったく放射線医はこれだから。その悪態を口に上せることを思いとどまったのは言ってどうなる相手でもないと判断したからだった。もしかすると、この男は本当に目の前で繰り広げられているオペの良し悪しがわからないのかもしれない。彼は憐れむような笑い声をたて、ガラスが隔てた向こう側で病魔を相手にメスを交えている医師たちに視線を移した。
「よし。5番リンパ節 * 、郭清終わり」
 雨宮からクーパーを受け取ると手術室ナースは彼の視線に気づいてこくんとうなずいた。彼女はリレーの後続ランナーにバトンをタッチするように執刀医の手にぱしり、と第二メスを渡した。手術室ナースの見事な先読みに雨宮は微笑する。
「では、小彎(しょうわん * )と迷走神経との切離に入ります」
 本日のメインディッシュです、とでも言いたげな朗らかな口調で彼は言い、胃小彎にメスを下ろした。
 が、オペ開始からこっち、リズミカルに動き続けていた雨宮医師の指先がふと静止した。医術器械をゆっくりと臓器から引き上げると、彼は考え込んだ。
「どうかしたのかね?」
 河田教授がオブザベーションルーム備え付けの小さなマイクに呼びかけた。雨宮は黙りこくって眼下の手術創をじっと見つめていたが、やがて口を開いた。
「いえ、予想よりも迷走神経が細くて未発達なんです。せっかく温存してもこのままじゃ十中八九、断裂を起こすことは確実でしょう。それを避けるには……」
「なら、迷走神経も一緒に切除してしまいたまえ。クランケに同意はとってあるのだしな」
 河田教授は言いきった。こんな簡単な判断も下せずに何をぐずぐずしているのか、といった口ぶりである。雨宮はガラス越しに自分を見下ろす初老の紳士に鋭い視線を投げつけた。
「お言葉を返すようですが、判断するのは僕です」
 彼は傍らの手術室ナースの耳元で何やらささやいた。彼女のいらえが微かにスピーカーから漏れてくる。
「……え。でも、先生はもうご帰宅されて……」
 だが、雨宮がかさねて二言、三言呟くと彼女は部屋のすみに控えている別の看護師に歩み寄った。看護師はわかりました、とうなずくと足早にオペ室を出て行く。
「Shame on you.(みっともない)」
 河田教授は吐き捨てた。
「雨宮先生、これは公開オペなんだぞ。おたおたしていないでさっさとオペを進めたまえ!」
「公開オペはショウじゃない」
 怒りのために耳たぶまで赤く染まっている彼を見やり、雨宮医師は冷ややかに言い放った。
「ハウプト * は俺だ。口出ししないでいただきましょうか」
 彼の言葉を引き継ぐようにオブザベーションルームに拍手とともに笑い声が鳴り響き、河田教授は驚いて後ろを振り返った。声の主は小野寺助教授だった。肘掛付きのソファにかけたまま天井を振り仰ぎ、ひとしきり声を上げて笑った彼は目尻の涙をぬぐって立ち上がった。オペ室とオブザベーションルームを遮断しているガラスを挟んで、クランケを守るように仁王立ちになった雨宮と小野寺との目が合った。
「雨宮先生、と言いましたか、君はなかなか勇気がある。口のきき方を差し引いても今の言葉は賞賛に値しますよ。……ところでどうやって迷走神経を温存するつもりですか? 説明を求める権利くらい、我々にもあるのではないかな」
 突然現われた調停者を執刀医は無言で観察した。彼は小野寺助教授とはほぼ初対面に等しく、ろくに言葉を交わしたこともなかった。が、沈黙は数秒のことで、雨宮からは単刀直入ないらえが返ってきた。
「助っ人を呼びます」
「助っ人?」
「そうです。迷走神経に最も牽引力がかかるのは左胃の静脈切断のために胃を挙上する * 時です。ですから、静脈切断と平行して迷走神経の即時縫合を行います。そいつと俺の二人でね」
「馬鹿な」
 河田の呟きを無視し、小野寺は言った。
「君の呼んだ助っ人とは一体誰だ?」
「ご心配なく。腕は確かな奴……」
 その時、シュンと音がしてオペ室の扉が開き、先ほど退出していったあの看護師が駆け込んできた。彼女はマスク越しに声を張り上げた。
「駄目です。携帯にもご自宅にも電話を入れたのですが、どちらも連絡がつきません」
「何だと」
 辛らつな言葉を口にはしても今まで冷静さを保っていた雨宮医師だったが、とうとう激昂した。彼は罪もない看護師を怒鳴りつけた。
「こっちは既に18分ロスしてるんだぞ。どうしてもあいつの腕が必要なんだ。私物の携帯ならつながるだろう、呼び出すんだ。どこで何をしてようが、男としけこんでようが構わん。今すぐにだ!」
「誰が男としけこんでるって?」
 再びシュンという音がした。オペ室の扉が開くと、そこには小さな身体に青いオペ着をまとった人物が立っていた。顔の大部分を覆ったマスクの上には大きな瞳がのぞいている。そのいでたちは間違いなく医師のものなのに、全身から滲み出る雰囲気にはどことなく少女の風情があった。
 小野寺助教授は目を疑った。これが助っ人? あの小柄な体つきはまさか女か? ──無理もないことだが、腕の立つ助っ人といえばもっと威風堂々とした鋭い目つきの偉丈夫を彼は想像していたのだ。
 その人物は両腕を胸の位置に上げた格好で雨宮の前に進み出ると、にやっと笑った。少女のような瞳が一瞬にして百戦錬磨の外科医のそれに変わった。
「何をぽかんとしてる、雨宮透センセイ。お望み通り、静川純が来たぞ。私は何をすればいい?」
「静川……」
 思わず安堵の念がこみ上げてくるのに気づき、彼は苦笑いを禁じえなかった。やがて胸の中に闘争心が湧きたってきた。負けたくない。俺はこいつにだけは負けたくないのだ。高揚する気持ちを押さえ、雨宮は口を開いた。
「迷走神経温存式で幽門側胃の切除中なんだが、この通り迷走神経は細くて未発達だ。胃を挙上なんてしようものなら神経肝枝が裂傷を起こしかねない。……ここまでいいか?」
 純はこっくりとうなずいた。
「俺が左胃の静脈切除を引き受ける。胃を挙上している間、お前には迷走神経のモニタリングと裂傷を起こした時の神経縫合を頼みたい。まあ、俺もぐずぐず仕事をするつもりはない。迷走神経が耐えられればそれで良し、だ」
「なるほど……」
 だが、彼女は考え深げに言葉を濁した。
「確かに不可能ではないな。だが、ニューロトメーシスの縫合は成功率が低い * 。雨宮先生ならわかっていることだろうが」
「物事は明るい方を見るタチなんでね。大丈夫、お前ならやれる。俺はそう信じて静川を呼び出した」
 お前に雨宮先生なんて呼ばれると照れるな。そう言い添えて彼は笑った。オペを中断しているこの一秒の間にさえ、クランケに対して重い責任を感じているのは雨宮自身だろう。だが、彼は多少皮肉っぽくはあるが笑顔を見せた。その笑みは相棒を安心させるためのものに他ならなかった。純は仕方なくうなずいた。ため息をつきながら。
 彼らの背後では心電図が雷光のようなグラフをモニターに映し出している。ピッ、ピッ、と規則正しい電子音がオペ室に響いていた。手術器械をつめたコンテナの横に手術室ナース、その隣にメインの執刀医。クランケを挟んでメイン執刀医に向かい合って立つ第一助手と、そして運ばれてきたばかりのマイクロスコープ * を覗くサブ執刀医。急造ではあるが阿部氏お抱えのオペチームが勢ぞろいしてクランケを取り囲んだ。
 メイン執刀医の位置に立った雨宮医師は壁の時計をちらりと一瞥し、言った。
「では、俺の介助は小岩井くん、静川先生の介助は大和さんがついてください。これよりオペを再開します」
 
 ピンポーン、とナースステーションに備え付けられたナースコールが甲高い音を立てた。ワークデスクについてカルテを整理していた若い看護師は壁のパネルで瞬いているランプに目をやり、あからさまにチッと舌打ちした。
 彼女はポケットからPHSを取り出し、無造作にキーを叩いた。医療機器に影響を与えない帯域を使用したパーソナルハンディホンシステムが病院内に敷かれているのだ。片耳にPHSを押し当てた格好で看護師はくるくるとサインペンを指の間で回転させた。鮮やかなホットレッドの唇が今にも通話口に触れそうになった。
「あ、境原さん?」
 茶色い髪にPHSから下がるストラップが絡みつく。数珠つなぎのビーズがちかちかと瞬くのが見えた。
「今、ナースコールがあったから。……そう、当たり〜。特別室の和石さん」
 通話口にうんうんと何度か相槌を打つうちにサインペンは回転に失敗することが多くなった。からんと音を立ててペンは何度もデスクの上に転がり落ちた。終いには背もたれに預けていた背を伸ばし、彼女はいらついたように唇をとんがらせた。ファンデーションがみっちり塗られた額にはしわが寄り、愛想の良かった口調は打って変わって険しいものになる。
「え〜、いいじゃない。どうせ特別室の近くにいるんだし。そもそもアタシじゃあ、あのお爺チャン、ちっとも言うこときかないもの。……ねっ? いいでしょ? お願いね〜」
 半ば振り切るようにそう言い、看護師は一方的にPHSの通話を切った。医師にも一目置かれるほど優秀で真面目な境原さんのことだもの、そのまま放置したりはしないでしょ──そう考えてから彼女はくすっと笑った。デキるひとってホントーに大変。その点アタシは賢いわよね〜。
 若い看護師は再びカルテの整理に注意を向けた。再びナースコールが鳴れば今度は間違いなく彼女が対応にあたらなければならなかったが、それを知ってか知らずか電子音が鳴り響くことはもうなかった。
 
 オブザベーションルームは不思議な熱気に包まれていた。見学に集まった看護師も大学講師も、教授連もまた息を詰めて異例の変則的なオペチームの一挙手一投足を見守っていた。一方、よく訳のわかっていない医学生の一人が傍らのもう一人を腕で小突き、互いに肩をすくめあっている。
「ご丁寧に癒着してるぜ。コッヘルをしっかり持ってくれ」
 ハウプトの落ち着いた声が集音マイクから響いた。とっさに顔を見合わせた河田教授と小野寺助教授は、片方は決まり悪そうに咳ばらいをし、もう片方は薄笑いを浮かべた。双方の頭をかすめた思いは恐らく同じだっただろう。曰く、“What a nuisance! 左胃静脈が癒着しているとは何と厄介なオペだ!”である。
 雨宮がケリー * を握って厄介なる癒着と格闘している間、純はと言えばマイクロスコープを覗いては粘性の帯を息を詰めて凝視していた。テーピングされた迷走神経は断裂は起こしていないものの、ところどころにある赤紫色の腫れが彼女を不吉な気持ちにさせた。
 純は彼を急かしたいのをぐっとこらえた。雨宮医師が取り組んでいるのは手を余計に動かしたからといって早く終わるような作業ではないのだ。
 やがて彼は静脈をやっと切り離し、結紮に入った。普段と何ら変わりないリズミカルな指さばきに彼女は内心で舌を巻いた。外科医とは気の短い人種が選ぶ職業だと医学生の頃に先輩に聞かされたものだが、雨宮の水のような落ち着きを見ていると思う。短気が外科医の適性だとは限らないではないか──。
 不意にあることに気づき、純ははっと息を呑んだ。マイクロスコープの覗く先を転じ、彼女は思わず声をあげた。
「動脈だ! このままじゃ先に左胃の動脈が引きちぎれてしまう!」
「お前に任せる。こっちはそれどころじゃない」
 メイン執刀医の返答を待たずに純の指示が手術室ナースに飛んだ。
「大和さん、止血クリップを」
 我知らず声が上ずった。動脈血管が裂傷すれば腹腔内はあっという間に血の海だ。万が一、止血に手間取ることがあればクランケの命が危険にさらされる。
「もうひとつクリップ。それから電メスをください」
 彼女は素早く動脈の二箇所をマイクロサージャリー * 用の止血クリップで固定した。首を傾げるナースからメスを受け取ると、二つのクリップに固定された部分の真中を狙って純はためらうことなくすっぱりと血管を断ち切った。微量ながら血液が彼女のゴム手袋を汚す。
「せ、先生! 何を……」
 オペの手順を無視した静川医師のとんでもない行動に手術室ナースは口をあんぐりさせた。やっと顔を上げた雨宮は彼女の手元を見ると、ほう、と芝居がかった身振りで感心してみせた。
「こっちは左胃静脈の結紮完了。……もう動脈がぶった切ってあるとは気が早い。通常なら動脈切離は7番の郭清が終わってからやるはずでは?」
 純はさっと顔を上げた。彼女の身体をアドレナリンが駆け巡る。意識するより先に言葉が早口で流れ出た。
「動脈の裂傷を避けるためだ。もとより、動脈を切離したからといって7番リンパ節の郭清に支障はない。何なら私がやらせてもらってもかまわないが」
 実際のところ、純が動脈にメスを入れた時に血管はほぼ引きちぎれかけていた。頬を上気させた純に彼はからかい口調で言った。
「気の短いやつだな、そうつっかかるな。短気な医者は外科向きだというが、短気な女じゃ嫁の貰い手がないぞ。……見ろよ。迷走神経の温存、めでたく成功、だ」
 件の迷走神経は既に牽引から解放されてのんびりと腹腔に横たわっていた。断裂など起こしていない完全な姿で、だ。純は放心したように迷走神経を見やり、次に雨宮を見た。その顔つきを見て彼はおかしそうに笑った。
「ついでだ、静川。動脈の結紮もやってくれ。動脈と静脈とで俺と結紮の腕比べだ。その後はもちろん7番の郭清をやるんだぞ。血管に傷なんかつけてみろ、タダじゃおかないからな」





「Good job, Doctor SHIZUKAWA!」
 疲れた足取りでオペ室から歩み出てきた静川医師は、高ぶった神経を治める間もなく声をかけられた。彼女が顔をあげるとそこには初老の紳士が立っていた。
 純は黙ったまま軽く会釈をし、そのまま足をオペ室第二の扉──オペ室は三重の扉によって外気から遮られ、清潔を保っているのである──に向けようとした。彼女の常で、オペが終わった後は一刻も早く雑菌の混じった美味しい空気を吸いたかったのだ。が、紳士はそれを許さなかった。
「静川先生、お見事でした。その腕前ならば武者修行にももう飽きられたのではないかな?」
 純の挙動がどうであれ、彼は言いたいことを言うつもりのようだった。彼女は見当をつけた。これが公開オペの主催者、河田教授に違いない。女性に武者修行という言葉は似合いませんが、と一人で笑い、紳士は言った。
「地域に密着した臨床も結構だが、そろそろ院に戻られたらどうかね。先生なら雨宮先生に劣らない、いや、それ以上の研究課題を……」
「雨宮先生だって神様じゃない。出来ることと出来ないことがあります」
 大胆にも純は教授の言葉を遮った。クランケにも看護師にも、カンファレンスで議論を交わす時でさえ平静を保とうとする彼女にしては珍しく急先鋒めいた語調だった。が、眉根を寄せた彼を見、純は言葉を和らげた。
「期待を裏切られたと思われるのもごもっともですが、わかってやってください。雨宮先生は我々外科医がなかなか下せない判断を……退却して他者を頼るという判断を下したんです。見事だったと私は思います。結果、迷走神経を残した上でオペを成功させることができたんですから」
 河田教授の背後にもう一人、紳士がうっそりと立っているのに彼女は気づいた。この人も教授連の一人なのだろうか。が、真剣な面持ちで純の言葉に耳を傾けているその様子はいささか“らしく”ない。
「私はほんの少し、その手伝いをさせてもらっただけです」
 言い終わると長居は無用とばかりに純は教授たちに背中を向けた。大学院への未練などかけらもなく、あっさりと立ち去る彼女を見つめて小野寺助教授は呟いた。
「現場の心意気というやつですか。ああいった先生がたが日本の医療を最前線で支えてらっしゃるんですなあ」
 やや自嘲めいた口調なのは、些細なことでつむじを曲げ合ったり意趣返しをし合ったりしている大学の人間たちを省みてのことだった。彼は心中で呟いた。それなりの野心と欲望を持つ自分には静川医師の真似は出来そうにもない。
「消化器外科には素晴らしい先生がたが沢山いらっしゃるようだ。わたしは河田先生がうらやましいですよ」
 河田教授に彼の言葉は届いていなかった。エレガントで見栄えのする雨宮医師の手技は好きだったが、今日の出来事は所詮、彼が思い通りに動く人材ではなかったということを示していた。次の公開オペは誰にやらせようかと教授は思案にくれた。後ろを振り返らない猪突猛進。彼はまぎれもなく短気な外科医の一人であった。
 
 日がとっぷりと暮れた戸外では冷たい雨の雫が降り注いでいた。窓を締め切っていてなお襲い来る肌寒さにアサミはぶるっと身体を震わせた。じきにこの梅雨寒も終わり、暑い毎日がやってくるはずである。が、今は今。このうすら寒さは耐えられない──半袖のナースウェアからにゅっと突き出た二の腕をさすりながら彼女はそう考えた。
 やにわにシュンと音を立ててオペ室に通じる扉が開いた。ストレッチャーが立てる派手な、がらがらという音が近づいてくる。アサミはとっさにオペ室の横で半開きになっていたサプライルームの扉の陰に身を潜めた。どうして隠れなければならないのかは自分でもよくわからなかった。ただ、ストレッチャーに乗せられているのが雨宮医師のオペを受けた患者であることは何となく見当がついた。そしてストレッチャーに続いてこの扉から彼が出てくるだろうことも。
 だがアサミの予想に反し、ストレッチャーの後ろから姿を現したのは小柄な身体に青いオペ着をまとった女の子──ではない──静川医師だった。顔を覆っていた大きなマスクをはずし、彼女は天井を振り仰いではあ、と息をついた。蛍光灯に照らされた顔は疲労の色が濃く、鼻の頭のそばかすが余計に目立っている。
 大きな目を何度も瞬く彼女の肩をぽんと叩く人影があった。雨宮医師だ。よくないことだと思いつつもアサミは身を固くしてじっと聞き耳をたてた。二人の男女が交わす言葉はもしかしたら彼女の思いを打ち砕くかもしれなかったが、それでもその場を後にすることはできなかった。
「要領が悪いな。ああいう場面では俺のことはけなしてだな、自分の有能さをアピール……」
「貸し、ひとつだ。雨宮」
「ああ?」
「やっと勤務が終わったところだったんだぞ。そこを呼び出されてこっちはたまったもんじゃない」
「ああ、悪い悪い」
 雨宮の低い笑い声を耳にしながら純は確信した。彼は悪かったなどとちっとも思っていないに違いない。
 再び呼び出された時、自分がまたも求めに応じてしまうだろうことも彼女は同時に確信した。寄せられた絶大な信頼こそは純にとって何にも代えがたい宝物だった。厳しい勤務の見返りみたいなものである。
「しかし、河田教授はY市立大じゃそこそこ影響力を持ってるんだぞ。気に入られれば色々と便宜を図ってもらえただろうに」
 彼女はまつげ一本ぴくりとも動かさなかった。学閥は虫が好かなかったのだ。雨宮は思った。相変わらず損な性分のやつだ。純の行動様式を解さない人々に彼女の本質は永遠にわかるまい。静川医師は愛すべき変わり者である。
「なあ。ところで、握手くらいならしても構わんかな?」
 廊下に面した窓を指さす雨宮に彼女は虚を突かれた。窓から見える道路の脇にはよく見知った軽自動車がしのつく雨に打たれ、街灯に照らされて鎮座していた。彼は大きくため息をついた。
「お前の彼氏は血の気が多いからなあ。下手なことをするとぶん殴られかねん」
「……」
「何を赤くなってるんだ」
「……やかましいっ!」
 純は差し出された手を乱暴に取り、握りしめた。小さな手だ。ついさっき自分がこの手を欲しがって地団太を踏んでいたなど雨宮には信じられなかった。彼は力強く静川医師の手を握り返した。
 握っていた手が離れると彼女はくるりと踵を返した。その背中に雨宮は言った。
「ありがとよ。お前のおかげで助かった」
 純は振り返らなかった。呼びかけに応えるように右手を小さく挙げ、彼女はそのまますたすたと歩み去った。
 静川医師の背中が見えなくなった後も、しばらく彼は黙ったまま廊下に立ちつくしていた。やがて彼は軽く頭を振り、ICU * のクランケへと思いを馳せた。ここ2、3日は術後感染症 * を警戒する必要がある。念のためイレウス * の可能性も考慮しなければならないだろう。
 雨宮医師には、彼が自覚している以外にもやらなければならないことがまだ山のように残っていた。阿部氏の主治医はICUに向けて足早に歩き出した。
 こっちに近づいてくる雨宮を見とめたとたん、アサミは扉の陰から飛び出した。驚いて立ち止まった彼を見、彼女は決心した。静川医師と同様──いや、それ以上に雨宮の顔は疲労の影に覆われていた。
「よう、境原さん。もう上がりかい?」
 未だオペ着のままの彼はいつもの癖で斜に構えると左手をポケットに突っ込んだ。片方の耳からは大きなマスクがぶら下がっている。
「俺はまだまだ帰れそうにもない。君と一緒に呑みに行けないのが残念だよ」
 冗談めかして言ったところで騙されはしない。明朗な口調ではあったが雨宮の声には張りがなく、低音部がざらついていた。
「……傘を忘れたんです」
 彼女の口調に深刻なものを嗅ぎ取ったのだろう。彼は皮肉な笑みを唇の端から消し去り、アサミの言葉に耳を傾けた。
「お仕事が終わるまでお待ちしてますから。だから、駅まで送っていただけませんか」
「おかしな理由だな」
 雨宮は窓の外を一瞥した。いつものことというか、お約束通りというか、輝く雨粒が窓ガラスをしきりに叩いていた。
「どうして俺を待つ必要がある? ちょっと探せば持ち主のわからないビニール傘の2本や3本、すぐに見つかるぜ」
「だって……」
 ひねくれものの外科医を納得させるには真実を告げるしかない。アサミは乾いた唇を苦心して動かした。
「雨宮先生を一人で帰したらきっとまた、オペの……人の体を切り刻む不安を、めちゃくちゃに酔っ払うことで忘れようとするでしょう? そんなに自分を苛め続けていては……」
「……」
「いつか体を壊してしまいます。それではわたしが困るんです」
 雨宮が一方ならない酒呑みであること、特にオペの後には浴びるほど呑むことは“雨を呼ぶ外科医”の通り名と共に有名であった。彼は口をゆがめた。消し去ったはずの皮肉な微笑がよみがえった。
「優等生の境原さんにはいつもながら恐れ入る。だが、俺が好きでやってることなんでね」
「わたしはどうせ型通りのセリフしか言えない優等生です。でも、たまには言うことを聞いていただかなければ困ります。あなたの身体はあなた一人のものじゃない。わたしのものでもあるんですから」
「ああ?」
「好きなひとの身体だもの。……優等生だって……人を好きになることもあるんです!」
 彼女の耳に電話ごしの同僚看護師とのやりとりがよみがえった。──境原さんはアタシとは違って優秀だから── 送話口から漏れてくるのは嫉妬まじりの、体裁だけは整ったいじめの言葉だった。声の後ろでおそらくはストラップだろう、かちゃかちゃと不快な騒音がアサミの鼓膜を刺激した。今なら処置室で雨宮が言った言葉の意味がわかる。瑣末事に捕らわれるな、役割を的確に果たせ。彼はそう言って自分を励ましてくれたのだ。
「……あなたが大事です。失いたくない……」
 彼女は雨宮の胸にこつんと額をあずけた。青いオペ着からは消しようもなく薬品と金属と血の混ぜ合わさった匂いがした。彼の身体を取り巻く匂いは彼にのしかかっている重苦しい不安そのもののように思えて、アサミはそっとオペ着に頬をすり寄せた。そうすれば不吉な香りを払拭できるかのように。
「こういう展開もあったか。迂闊だった」
 彼女が見上げると、そこには皮肉なセリフとは裏腹に顔を赤くした雨宮医師がいた。困ったように彼は言った。
「そんな風に真剣な顔でお願いされちゃ、俺はひざまづいて許しを請うしかないじゃないか」
「……もう、深酒はやめてくださいますか?」
「参ったな」
 うろたえる雨宮が意外に可愛らしくて、そして愛おしくて、彼女はこらえきれずに笑い出した。アサミの笑い声はいつだったか、二人で一つの傘をさして歩いた夜を彼に思い出させた。あの晩と同じ、クリスタル製のグラスが雨粒を受け止めたようなりんと澄んだ声だ。
「ひでえな。そんなに笑うことはないだろう?」
 言いながら、雨宮もくっくっと喉を鳴らして笑い出した。猫背で野暮ったくて、お世辞にも美人とは言えないアサミだったが、すらりと背の高い整った容貌の彼と二人並んだ様子はすっかり心を許し合った恋人同士のように見えた。
 不意に雨宮は身を屈めた。と、彼女の頬を掠めるように彼の唇が行き過ぎた。顔を赤らめる暇も与えず、雨宮は彼女の耳朶にささやいた。
「あと2時間はかかるぜ。いや、それ以上かも」
「構わないわ」
「……降参だ」
 彼はホールドアップの格好をしてみせた。アサミの脇をすり抜け、二、三歩足を進めるとひねくれものの外科医はちょいとふり返り、言った。
「待ちくたびれて帰ったりしてみろ、俺は傷つくぞ」
 彼女の返事を待たずに前に向き直り、雨宮はICUに向かって急ぎ足で歩み去っていった。彼にしてみれば、これ以上他人に赤い顔を見られるのは御免こうむりたかったのに違いない。
 残されたアサミはふと呟いた。
「あ、血……」
 ナースウェアの胸に血痕がついている。雨宮医師のオペ着からついたものに違いなかった。
 誰かに見咎められはしないか。一瞬そう考えた後、取るに足りないことだと気づいて彼女は気を揉むのをやめた。白地に刻まれたくっきりとした鮮血は、雨宮からほんの少し分けてもらった彼の不安と苦しみのような気がした。
 戸外では未だに雨粒がアスファルトの路面を激しく叩いていた。跳ねかえった雫が時折、病院からもれる明かりに照らされてはきらきら光っている。
 本当の気持ちを伝えることができて、あの人が聞いてくれて、よかった。心からそう思える。
 窓のガラスと水滴とが奏でるレインドロップスのリズムに合わせ、アサミは病院の廊下を歩き出した。

『役に立たない医療用語解説』『ドクター・ピュアガール マニアックス[3]』







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    −ドクター・ピュアガール[3] 受け止めて、空の雫− 著者:冨村 千早 脱稿:2003.8.3

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    この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。