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ドクター・ピュアガール
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[1]/ [2]-前編 -中編 -後編[3]NWしおり


「では、和石さんのオペは小林先生に担当していただくということで、よろしいですか? 静川先生」
 少し困ったような口調で外科部長は医師の同意を促した。
 静川と呼ばれたその人物は肘掛椅子に身を沈め、半眼のまま沈黙していたが、やがて口を開いた。
「無論です。その方が和石さんも治療に集中できるでしょう」
 彼女の淡白な口調はカンファレンスの場に安堵感をもたらした。あんな小さな女の子みたいな先生では頼りなくて、などという恐らく本人にとっては理不尽極まりない理由で担当を下ろされることに彼女が腹を立てるのではないか、と周囲は危惧していたのだ。
 静川医師の隣席で小林医師が恰幅の良い体を起こした。場をとりなすつもりで喋り出す。
「……あー、つまり。和石さんは古いタイプの人間なんですな。医者とは皮張りの肘掛椅子にでーんと座ってこっちをじろっと見るような、恐ろしい大男でなきゃならんと思ってらっしゃるんですよ。先生みたいにキュートな外見では、診断を下されてもどうにも落ちつかないという訳で。
今回の事はあなたの落ち度じゃありませんから。ですから……」
「ああ、小林先生。個別の話は後で頼むよ。それじゃ、解散しよう。先生方、お疲れ様でした」
 とめどない彼の嫌味にやんわりとピリオドを打ち、外科部長はがたりとお尻で椅子を押して立ち上がった。数名の医師が咳払いをしたり眼鏡をずり上げたりしながら何も聞いていなかったような顔をしてそれに続く。
 静川医師もまた、ボールペンを白衣の胸ポケットに突っ込むと資料を手に席を立った。カンファレンスルームを出た彼女を小林医師が慌てて追ってくる。
「静川先生!」
 立ち止まったナイキのスニーカーにダークグリーンのサンダルが追いつき、病院の廊下を並んで歩き出した。黙りこくっている傍らの彼女を一瞥し、庇ってやったのに無愛想な女だと考えつつも顔つきだけはにこやかに彼は言葉をかけた。
「先生。私を悪く思わんでください」
「それはもちろん、そのつもりですが」
 馴れ合いの語調を含む言葉を受け流してスニーカーは規則正しく歩を進めている。小林医師は思いきって、追いかけてきた理由を口に上せた。
「オペの際には是非、私の助手を。よろしくお願いしますよ、先生」
「はあ。私は構いませんが……」
 さすがに静川医師は内心、眉を寄せずにいられなかった。クランケは自分を遠ざけることを望んだはずなのだが。それとも、患者の意識の無いうちは誰がメスを握ろうと関係ないとでも言うのだろうか。が、彼女の返答を聞いた彼はすっかり安心した様子だった。
「おお、やってくれますか。それは良かった。じゃ、私はこれで。仕事が残ってますんでね」
 そう言い残すと用は済んだとばかりに彼はくるりと踵を返した。あっさり立ち去っていくその後姿を半ば呆れた思いで静川医師は見送った。
 開け放たれた廊下の窓から吹き込む風が肩の上でぷっつり切り揃えられた髪を揺らす。程なくして風は徐々に大きくなっていく救急車のサイレン音を運んできた。
 何だかどっと疲れが出た。


 その人とは、とある総合病院で出会った。
 病院の敷地内に設けられた駐車場。軽自動車の扉をばたんと閉じてキーロックを確かめた彼は、鼻腔をくすぐる香りにふと振り返った。
 ……キンモクセイの香り。
 風が運んでくる淡い匂いの発生源はすぐに知れた。駐車場のまわりに、間仕切り代わりにぐるりとキンモクセイが植えられているのだ。
 その傍らに一人の少女が佇んでいた。
 彼女は小さな身体を折り曲げて自分より更に小さな木に屈み込み、誇らしそうに匂い立つ花に顔を寄せている。 化粧っ気のない顔はうっとりとした表情を浮かべ、まぶたは薄く閉じられていた。
 鼻の頭には薄い小麦色のそばかすが幾つも散っていて、彼女をやんちゃな悪戯小僧のように見せている。
 軽く羽織った白衣の胸元からのぞく洗いざらしのシャツ。
 オフホワイトの綿パンから細いくるぶし、ナイキのスニーカーへと続いた足の周囲にはキンモクセイの花が無数に散り敷かれていた。
 ふうっ、と彼女は深くため息をついた。
 わずかな一時を彩る小指の先ほどの金色の花々と、ほんの一瞬のささやかな息抜きを楽しむ少女。
 彼らはとても良く似ているように思われた。
 近づく足音に気づき、彼女は顔を上げた。途端にその頬を一筋の涙がつたった。涙の粒はしばらくあごに留まり、やがてキンモクセイの絨毯にぱたぱたと滴り落ちた。
 背筋が震えた。見てはならないものを見てしまったような気がした。
 彼女は最初、自分の涙に注意を払っていないようだった。が、彼と目が合うとばつが悪そうにちょっと笑い、ひらりと白衣の裾を翻して病棟の裏手へと駆けていった。
 病院の関係者なのだろうか。
 だが、微笑んだまま涙を零した少女と薬くさい病棟とを頭の中で結び付けるのは彼にはどうにも困難だった。 病院が雇ったアルバイトかもしれない。彼はやや強引にそう結論付けると並木に沿って病院の正面玄関に向かい、歩き出した。
 キンモクセイは相も変わらず甘い香りを辺りに撒き散らしていた。
 
「星野さーん。星野哲郎さーん!」
 看護婦の声高な呼びかけに立ちあがると、待合室の視線はいっせいに彼に注がれた。もう慣れているとはいえ、やはりこの感触は心地よいものではない。
 哲郎の父は熱烈な巨人ファンである。特に川上哲治が好きで、いつも口癖のようにこう言った。
「巨人は川上あってこそだ。アイツがいたから今の巨人があるんだ」
 哲郎が生まれた時、だから父は彼を“哲治”と名づけるのだと言って聞かなかった。が、祖母は父の主張を一蹴した。彼女は孫の名前を“寛寿郎”にすると断言した。言うまでもない。祖母は嵐寛寿郎の大ファンで、飼っている犬にアラカンという名前をつけるほどなのだ。
 似た物親子なだけに一歩も譲らない両者の戦いは永遠に続くかと思われた。が、哲郎が生まれて二週間目の朝、母がおもむろに口を開いた。
「この子の名前は、哲郎にします」
 やや疲れが見え始めていた父と祖母は「哲の字が入ってるなら」、「郎の字が入ってるなら」と表面は渋々とその提案を受け入れた。
 この話を酔っ払った父から聞いた哲郎は、本人の意向無視で決断が下される今日の日本の名付けシステムに激しく疑問を感じたのだった。ささやかな救いは、アニメマニアの親類か何かが「絶対に“鉄郎”にすべきだ!」などという主張をしなかったことだった。
「はい」
 できるだけ小さな声で彼は返事を返した。銀河なんたらいうアニメの主人公と同名だというだけで、どうしてこんな肩身の狭い思いをしなければならないのだろう。
「星野さん、純先生の方へどうぞ」
「あ……。はい」
 じゅんせんせい?
 看護婦の指示に首を傾げて哲郎は廊下に並んだドアを見た。やがて、“医師:静川 純”と張り紙のされたドアを発見すると、彼はやっと衆目を逃れて診察室へと足を踏み入れた。
「よろしくお願いします」
 軽く頭を下げた後、顔を上げた彼は肘掛椅子に腰掛けてこちらを見ているひとを見て言葉を失った。
「星野哲郎さん? じゃ、座んなさい」
 彼女は──医師は女性だった──患者専用の椅子を指し示した。
 気さくにかけられた声はびっくりするほどハスキーで、顔を見ないままなら男性だと哲郎は勘違いしたことだろう。
 白衣から突き出た華奢な腕。床に投げ出された足にはブルーグレイのスニーカー。
 あの少女だ。病院の駐車場で出会った、キンモクセイの少女。
「どうした?」
「え、えーと……」
 哲郎は口ごもった。驚きと焦りと、少しばかりの緊張が彼の言葉をしどろもどろにした。
「静川先生、ですよね?」
「え?」
 少女は(いや、いくら何でも少女と呼べる年齢ではないだろうが)不思議そうに哲郎を見た。その瞳に涙の痕跡はない。
「そう。私が医師の静川だけど」
「あの、すみません。疑ったわけではなくて、その……」
 こちらに背中を向けている看護婦が漏らす忍び笑いが耳に入り、彼は首まで真っ赤になった。
「あんまり、その、か、か、可愛いもので、本当に先生なのかと……」
 こらえきれなくなったのか、看護婦は声を立てて笑い出した。医師は困ったように彼女を仰ぎ見た。
「純先生、口説かれてますね。あたしはお邪魔みたいだから席をはずしましょうか?」
「橋本さん。あのね……」
 純は少し肩をすくめると哲郎に向き直った。
「可愛いって言われてもねえ……。私は多分、君より相当年上だよ。それともこんな外見の女じゃ、診察が不安?」
 哲郎はあわてて首を振った。駐車場で出会ったときは気づかなかったが、こうして会話を交わしてみると彼女の落ち着き払ったハスキーボイスからは医師ならではの威厳と風格、それから冷静な思考とが感じられた。
 彼は再び頭を下げた。
「お願いします、純先生」
 彼女はにやっと笑った。鼻の頭のそばかすが寄って不敵な笑顔になった。
「よし。じゃ、診てみよう」





「純先生から説明受けたんでしょ? 哲くんの腫瘍は良性のポリープで、切除してしまえば後は心配いらないって」
「でもなあ。今は痛くも何ともないんですよ? 学校休んでまで、切らなきゃいけないのかなあ」
 病院のベッドの上で哲郎は、忙しく立ち働く看護婦の橋本美香の横顔を相手に不平を漏らしていた。
 純の診察を受けた後、彼は幾種類ものうんざりする検査を何日にも渡って受けた。一週間後に来るようにという指示に従い、再び彼女の元を訪れた哲郎は不意打ちのように“入院、そして手術”という宣告を受けた。
 自分の胆嚢(たんのう)にポリープがあることは前から知っていた。が、特に症状もなく、定期的に検診を受けるだけでよいと診断されていたのだ。
 大学の休学届けの処理やら、今は離れて暮らす両親への連絡やら、心配だから来るという母を受け入れる準備やらを済ませて無事に入院することができた時は、妙な話だがそれだけでホッとしたものである。
「肥大の見られるポリープは切った方がいいって専門家が言うんだもの。切っといたほうがいいんじゃない?」
「うー」
 哲郎はぼすっと枕に頭を落とした。白い天井に出来た薄暗い染みは何かのまじない文字のようで彼の心を落ち着かなくさせた。
「……ね、橋本さん。純先生って、何者なんスか?」
「何者って、なに。そういう哲くんこそ何者なの?」
 美香は手を休めることはない。今は点滴のための支柱棒を引っ張り出そうとベッドの脇に腰を屈めている。
「おれですか? おれはしがない文系私立大学に通う平凡な19歳ですよ。えーと、趣味はカメラ。彼女いない歴は」
「19年!」
「……先に言わなくたって、いいじゃないですか」
 彼は看護婦を軽くにらみ付けた。が、彼女はそんな事は意に介さず、笑顔でテキパキと患者を促した。
「それじゃ、点滴しますから、腕を出してくださいね」
 平凡な19歳はうんざりした顔で腕をまくって白い布団の上に横たえた。点滴は尿意を催すので嫌いなのだ。
「橋本さん」
「はい?」
 哲郎の腕をつかみ、血管を浮かせることに集中している美香はおざなりに返事した。
「純先生ってさ、歳、いくつなのかな」
「……」
 血管は見えてはいるのだがなかなか浮き出てこない。新米看護婦じゃあるまいし、点滴の針も射せないでどうするんだと彼女は心の中で自分を叱咤した。
「結婚、してるのかな」
「……」
「恋人とか、いるのかな」
「……」
 ここだ。
 その一点を見つめ、神経を集中させるとぐっと息を止め、看護婦は針を射し入れた。
「っ痛てえええー!」
「あ、ごめんなさいね。痛かった?」
 ちっとも悪いと思っていなさそうな明るすぎる口ぶりに哲郎はムッとした。
「橋本さん、おれの話、聞いてないだろ」
「うん、聞いてなかった。哲くん、血管細いんだもの」
 ぺろりと舌を出して笑う彼女を見、哲郎はちぇ、と呟いた。時計をにらみ、点滴のノズルを調節すると美香は笑って彼を促した。
「で、純先生が何か?」
 改めてそう聞かれると言葉が出てこない。赤くなった哲郎を見つめて彼女はふうん、と合点が行ったように一人うなずいた。
「そうか。哲くん、純先生のファンだったものね」
「いや、ファンつーか……」
 キンモクセイの木の隣で涙を零していた姿が一瞬、目の前によみがえる。胆嚢ではなく胸が痛んだ。彼はぼそっと言葉を付け足した。
「何となく、気になるだけです」
「……へえ?」
 哲郎はそれきり口をつぐんでしまった。からかってるのがバレたかな、と考えつつ看護婦は態度を事務的に改めた。
「じゃ、点滴が終わったらナースコールで呼んでくださいね。30分程ですから。それから……」
 横を向いたままの彼女の患者に、白衣の天使は声をひそめて言った。
「恋人がいるかどうかは知らないけど、純先生は独身ですよ」
 ぽたり、ぽたり。
 音もなく滴り落ちる点滴液が身体の渇きを癒していくのが感じられる。
「純先生って言葉がちょっと乱暴で診察を怖がる患者さんもいるけど、腕は確かよ。責任感も強いし。それなのにね……」
 彼女は白いシーツに視線を落とした。
「……先生、自分のことになるとからっきしのお人好しなんだから。あんなこと言われて何も言い返さないなんて、ちょっと見損なったなあ」
 歯がゆそうにそこまで言って美香は口を閉ざした。先の言葉を期待して哲郎は彼女の顔を見上げたが、看護婦は黙ったままだった。
 彼女は気分を変えるように微笑すると哲郎の額をちょいと人差し指で小突き、言った。
「憧れのメーテルに執刀してもらえるんだから、ありがたく切ってもらいなさいな。星野哲郎君!」
「その呼び方はやめてくださいって言ったでしょう!」
 むきになった哲郎から逃れるようにあははと笑って美香は足早に姿を消した。ぱたぱたという足音が廊下の向うへと遠ざかっていく。
「……あんなことって、なんだ?」
 点滴の針が刺さったままの腕を庇ってごろりと寝返りを打ち、彼は呟いた。
 閉じた空間のようでいて病院の内部って色々あるものなんだな。そう考えてから哲郎は思い直した。いや、閉じた空間だからこそ、か。
 点滴液の残量を気にしながらも、青年は浅い眠りに落ちていった。
 




「和石 誠さん。68歳。男性。えー、内視鏡検査にて幽門側胃癌と診断。深達度はT2 *、肉眼分類はボールマン2型 *です。本日のオペでは幽門側胃 *の切除術を行います。皆さん、よろしくお願いします」
 読み上げを行う執刀担当の小林医師の声が流れるオペ室に、静川医師は青い手術着を身にまとって立っていた。
 クランケには既に意識はない。手術液で茶色くなった患部を残して手術用の滅菌カバーに覆われた身体を見つめ、自分がここに立つことをこの人は果たして喜ぶのだろうかと純は自問した。
 心電計の単調な電子音にのって小林医師は快調にメスをふるっていく。病巣は胃の下側、十二指腸より少し手前にあり、上を残して全体の2/3の胃を切除する予定になっていた。
 時折、「間違いない。典型的なボールマン2型だねえ」とか、「このコッヘル、押さえててください」などと彼が話しかけてくるのにスタッフたちは迅速に応じていく。順調に進む作業に誰もがそっと安堵の息を漏らしていた。予定通り、すんなりと終わりそうだ。このオペは。
 手術開始から小一時間ほどが経過した頃、ふと純は噴門 * 近辺の胃粘膜に目を移した。それから病巣から走る無数の血管のラインを目で追ってみてある考えが頭をよぎり、彼女の顔にさっと緊張が走った。
「小林先生。これ、見てください」
「何か?」
 調子よくオペを進めていた中年の医師は注意をそらされて少々気分を害した。静川医師の指差す先を覗きこむ。
 粘膜の海に浮かぶ赤紫色のわずかな隆起。潰瘍だ。7ミリ程度と小さめではある。
「内視鏡検査で見逃したんですな。まあ、切除の範囲に収まっています。問題ないでしょう」
「ここだけじゃないんだ。ここにも」
 彼女はゴム手袋に覆われた指を剥き出しの胃の上空でスライドさせた。こちらの潰瘍は更に小さい。5ミリといったところか。執刀医が口を開く前に純は言った。
「噴門側を術中迅速診 * した方が良くはないですか? ……これ、転移してるんじゃないだろうか」
「うがち過ぎだと思うがね。ただの潰瘍をスキルス * でも発見したみたいに」
 スタッフたちはしんとして二人の医師の議論を見守っている。その静寂に後押しされるように彼は言葉を継いだ。
「術前診断ではリンパ節郭清 * はD1+α * でいけるという見通しだったんですよ。クランケも可能な限り、胃を残すことを希望してるんだし。それをわざわざ……」
 純は首を横に振った。
「いや。迅速診の結果を見なければ断言は出来ないが……、この胃は全摘すべきだと思うね」
 
 術中迅速病理診断の結果に、スタッフたちはオペ内容を幽門側胃の切除から胃全摘へと変更する事を余儀なくされた。第2群リンパ節 * に転移あり。純が採取した生体サンプルから癌細胞が検出されたのだ。
 更に彼女の提案でなされた第3群リンパ節の試験結果もまた癌の転移を告げていた。こうなれば議論など時間の浪費に過ぎない。二人の医師はクーパーを握り、早速リンパ管やら剥離した血管やら血流やらとの格闘を開始した。
「小林先生、ここ、そっち側とタイミングを合わせてやろう。本動脈を同定露出したら言ってください」
「あ、ああ。待ってくれ。脾臓を損傷してしまいそうでね。……おい君、糸が短すぎるぞ」
 手術室ナースを叱りつけると小林医師は再び剥き出しの胃に没頭した。純の手も大わらわで止血に、結紮(けっさつ)にと動いている。相当の出血があるようだ。
「ふうっ、本動脈は見えたぞ。だがタイミングを合わせるといっても……。うまくいくかね?」
 実際、気が抜けていたのだろう、中年の医師は気が抜けたような声を出した。彼女は目を細めてにやっと笑ってみせた。普段なら悪戯っぽく見えるその笑顔も、このシチュエーションでは大胆不敵に映る。
「大丈夫でしょ、恐らくね。じゃ、やりますか」
 
 ガラガラと音を立ててオペ室から運び出されるストレッチャーを横目に、静川医師は椅子にへたり込んでいた。正直、疲れた。腕がひどく重い。こういう時は真剣に男が羨ましかった。
 彼女に遅れて小林医師がオペ室から現れた。彼もまた疲れきっているようで、純の隣にどさっと腰を落とした。
「……しかし、どうしてだ」
 長いため息を吐き出した後、彼は呟いた。
「どうして、あの潰瘍が転移の兆候だとわかったのかね?」
 背もたれに身体を預けながら、オペ室前にはマッサージ椅子を備え付けるべきだと彼女は考えた。だるそうにゆっくりと手を持ち上げる。
「こう、胃を立体的に見たとして……」
 純の指が空を切って二人の眼前に大きな胃袋を描いた。
「ここが患部だ。ここが第1の潰瘍、ここが第2の潰瘍。で、門脈が通っていると。……こうやって見ると門脈にまとわりつくように胃を上昇しているでしょう。これが転移の経路なんじゃないか。そう思った。まあ、EMR *だったら術野が悪くてお手上げだったな。運が良かったんですよ」
「それは……。言われてみればそうかもしれないが……」
「しかしD4 *が必要なくて本当に良かったですね。D4はこのクランケにはさすがにキツイでしょう」
 定型的な推論から得たのではない純のひらめきに小林医師は絶句した。彼の隣で静川医師は押し寄せる疲労を何とか追いやろうと目頭を押さえている。
「とにかく、オペは無事成功だ。……その、純先生」
 純は驚いて傍らのくたびれた中年の医師を見やった。彼が自分を純と呼ぶのを聞くのは初めてのことだった。
「見事なお手並みだった。あんなことがあった後で、よくやるな。あなたも」
 小林医師らしく屈折した誉め言葉だった。彼女は肩をすくめて言った。
「それはどうも。お褒めにあずかり、光栄です」


 月光の降り注ぐ晩、哲郎はふと目を覚ました。慣れない入院生活のせいか、よく夜中のおかしな時間に目覚めてしまう。
 そういう時、青年は病室の窓から夜闇に包まれた戸外を眺めては、手術のことや見舞いに来てくれた友人のことなどを寝ぼけた頭で考えた。
「お前、何だか人待ち顔な。誰か待ってんのか?」
 見舞いに訪れた友人の一人にそう指摘されて彼は言葉に詰まった。病院では日に一度、主治医が入院患者の元を回診に訪れる。純が哲郎のところにやってくる時間が迫っていたのだ。
 が、友人は全く別の意味に捕らえたようだった。
「あのさあ。余計なお世話かもしんねーケド、こういう時に世話に来てくれる女とかいないわけ? 哲、それはかなりイタイぞ」
「うるさいな。おれはおれの理想の女性(ひと)と巡り合えるXデーを待ってんだ。慌ててそこら辺の性格ブスをつかんだりするのはヤなんだよ」
「選り好みできる立場かよー」
 みじんの遠慮もなく大声で笑われた。全くあいつ等は男の夢ってものがわかっちゃいない。……ともかく、彼はそのXデーとやらが来ることを固く信じて疑わなかったのだ。
 哲郎はゆっくりとベッドの上に起き上がり、冷たいスリッパに素足を突っ込んだ。音を立てないように気遣いながら、すすっと窓をスライドさせる。たちまち風が部屋中に夜の空気を満たした。
 ああ、この香りは。
 キンモクセイだ。
「ん……」
 背後で小さな吐息が聞こえ、彼は振り返った。いぶかしげに眉を寄せ、ベッドを囲う淡いブルーのカーテンを少し脇に引いてみる。
 そこには静川医師がいた。
 カーテンの外側に置かれたパイプ椅子に身を預け、彼女はすうすうと寝入っていた。
 白衣は着ていない。いつものスニーカーを履いた足は前に放り出され、まくった袖からのぞく腕はずり落ちそうな書類の束を辛うじて膝の上に保持している。椅子が置かれた背後の白い壁が短髪に覆われた頭を支えていた。
「な、なんでこんなトコで寝てんスか。……先生、純先生?」
 哲郎は純の傍らに立ち、小さく声をかけた。が、いらえはなく、彼女の寝息が夜の病室の静寂を破るのみだった。
「あの。先生?」
 純の肩に手をかけてみて彼はびくりとし、慌ててその手を引っ込めた。彼女の肩があまりに細く、頼りなかったからだ。
 思い直して哲郎は再び彼女の肩をつかみ、そっと揺り動かした。
「純先生、起きてください。こんなトコで寝てちゃ風邪ひきますって。こういうの、医者の不養生って言うんですよ」
「……」
 眠りこけたままのドクターを眺め、彼は心中で呟いた。
 ああ、疲れてるんだな。本当、本当に、疲れてるんだなあ……。
 月光に照らされた純の寝顔を見つめていると、どこかで聞きかじった看護婦の言葉が脳裏をよぎった。
 (静川先生、患者さんの担当を外されたんですってね)
 (あんなこと言われて黙ってるなんて。自分のことになるとからっきし、純朴なお人好しなんだから)
 青白い光の中で唇だけ血が通っているかのようにほのかに色づいている。そうするのが自然なような気がして、哲郎は吸い寄せられるように彼女に口づけた。甘い寝息と肌の匂い。湿った柔らかい感触と共に驚愕が彼を襲った。
「お、おれ……。何やってんだ……」
 慌てて手の甲で唇を押さえた。が、全身が熱く奮い立つような感覚を覚えたのも事実だった。
 この人なのか? この人がおれの待ってた人なんだろうか?
 自分より相当年長の、凄腕の外科医が?
 一見、小さな女の子みたいに可愛いけど、口を開けばハスキーボイスで素っ気ない男言葉を吐く女が? 
 頭に様々な思惑が渦を巻いた。運命の人に出会えば瞬間でそれとわかると想像していたのだが、実際にはそうはいかないようだ。
 純は眠り続けている。もう一度触れたいという欲望を押さえきれず、哲郎は彼女に手を伸ばした。
「ん、うん……」
 が、彼の手が届くより先に純はゆっくりと目を開いた。眼前の哲郎を見、何度か瞬きをする。
「……星野くん? あ、寝ちゃったのか。私」
 こめかみを押さえて頭を振り、多少ふらつきながら彼女はパイプ椅子から立ち上がった。未だ覚醒していない瞳は窓から射しこむ月光を跳ねて煙るような灰色に見えた。
 足元のおぼつかない純を支え、衝動に突き動かされるまま彼は口走った。
「純先生。その……なんつーか……」
 ごくりと唾を飲み込んだ。こんなシーン、何かのドラマであったと思う。だが、この感情は彼の中でたった今生まれたばかりで、セリフまわしどころか自らの気持ちの重ささえ哲郎は量りかねていた。ただ火のような激情だけが彼の背中を後押しした。
「……そうだよ。おれ、先生のことを、好きなんだ……」
 哲郎は彼女の身体を抱きすくめた。まるで花束を抱いたように胸にすっぽりと収まった存在が愛しくてならなかった。
「……何だって?」
 彼の腕の中で純は目をぱちくりさせた。言われた事の意味がすぐにはわからなかったのだ。が、次第に彼女の頬は淡く染まった。
「ちょっと、待ちなさい。冗談も程々に……」
「冗談なんかじゃあ、ありませんっ!」
 哲郎は彼女を抱いたままベッドに倒れこんだ。
 ばさっ!
 純が抱えていた紙束が床に落ちる。
 月光が薄青く染めたシーツに黒髪が滴り、その横に細い腕が投げ出された。激しい語調の言葉が彼の口をついて出た。
「おれは見たんだ。あの時は……。あの時、純先生は泣いてたじゃないですか。患者の担当を外されたこと、本当は口惜しいくせに。今だって突っ張ってるだけのくせに。
泣いてる女の子を可哀相だって思って、何とかしてあげたいって思って。好きだって思って、なんか問題ありますか!」
「星野くん……」
 哲郎はそれ以上言葉を続ける事が出来ず、力任せに小さな身体を抱き締めた。自分の傷に無頓着な彼女がひどく悲しかった。
 やがて、彼は泣き出した。
 青年にのしかかられたまま、彼の行動を見守っていた純はぽつりと言った。
「泣いてるのは、君の方じゃないか。星野くん」
 鼻腔をくすぐるキンモクセイの香りに気づき、彼女はそっと微笑した。哲郎の背中を軽く叩き、純は言った。
「君の気持ちは嬉しいよ。……でも、こんな振る舞いは感心しないな。
私は医師だ。患者と医師の間には信頼が必要だが、感情的にはなるべきでない。どのクランケの担当を外されようが外されまいが、だ。まして、私は君を執刀する主治医だ。こんなことをして、私のメスが鈍ったりしたらどうする? 私一人の責任問題ではすまないことくらい、わかるだろう?」
 主張の通り、純の語調は夜露のように平静だった。彼女は青年を促すと上半身を起こし、ベッドから立ち上がった。
 哲郎もまたベッドの上に起きあがると口をへの字に曲げ、床に散乱した書類を拾い集める純の背中を見ながら寝巻きの袖で目と鼻をこすった。
 次に彼の口から出たのは恨み言だった。彼女の淡い否定が哲郎の気持ちを傷つけていた。
「大人の逃げ口上なんかわかりたくありません。おれのことを嫌いなら嫌いとはっきり言ってください」
「四の五の言わずに聞きなさい。私は、君のいのちに関わる話をしてるんだよ」
 純はびしりと言った。ベッドに腰掛けたままこちらを見ようとしない彼に、彼女は声のトーンを幾分落とした。
「オペが長引いてね。回診に来られなかったから、帰りに寄ってみたんだ。あんまり気持ち良さそうに眠ってたから、起こすのも気が引けた。
……私はね。突っ張ってでもいなきゃ、オペ室で立ってることも出来ない小心者なんだよ」
 言葉の端にわずかにある苦しそうな響きに哲郎は思わず顔を上げた。が、彼女は一言、早くベッドに入って休むよう哲郎を促すと、何事もなかったように部屋を出ていった。
 哲郎は押し黙って医師の指示通りにベッドに潜りこみ、頭から布団をかぶった。
 やっと出会った運命の人はいきなり彼に恋わずらいを義務付けた。簡単に引き下がるつもりはなかったが、彼女を振り向かせるのは至難の技であるように思えた。
 細く開いた窓の隙間から甘い香りが漂ってくる。自信のない彼は深いため息をついた。
 




 かちゃかちゃ音を立てて食器と食器がぶつかり合い、引き戸は開いたり閉めたりする度にガラガラと派手な音を振りまいている。
 あるテーブルから不意にどっと笑い声が上がったかと思うと、別のテーブルでは中年のサラリーマンらしき男が立ちあがって不平らしきセリフを大声で怒鳴り始めた。
 喧騒溢れる居酒屋の一隅を占める大テーブル。そこで、ある総合病院のスタッフ達が日ごろのうっぷんを晴らそうと羽目をはずして騒いでいた。
 看護婦が男女平等の建前上、看護師と呼び名を改めたものの、やはり現場の人員はほぼ女性で構成されている。テーブルの一角では数人の男性医師が談笑しながら酒を酌み交わしているが、他の席の大部分は女性で占められていた。
「それでその患者さん、どうなったの? 橋本さん」
「そりゃあ、まだ入院してるわよ。B病棟に」
「えー? じゃ、B病棟に行けばその変なネグリジェ姿が見られるってわけ?」
「運が良ければね。奥さんがいらっしゃる時はさすがに着ないようにしてるみたいだから」
 看護婦たちはきゃっきゃっと笑い声を立てた。同席の医師に気を使って最初のうちはおとなしくしていたものの、場が和んでいくのにつれてそういった配慮も抜け落ちていく。
 医師たちは医師たちでそんな雰囲気が嫌でもないらしい。軽くなっていく空気に合わせて時折、「田原さん、あの時はありがとう。助かったよ」とか、「君、オペ室に異動しない?」とかいった、嘘か本気かわからないような言葉を彼女たちに投げかける。
 それをさらりと受け流して看護婦たちはおしゃべりに興じていた。もちろん、アルコールと食物も適度に摂取しながら。
「でもさ。退院したらどうすんのかしら。奥さんに隠れて密かに着る……とか?」
 古参の看護婦、田原さくらがぷっくりした赤い頬を更に赤くして言った。相当酔いがまわっているらしい。
「そう簡単には退院できないんじゃないかしら。西中島さんの癌は難しいみたいだから」
 橋本美香が発した“癌”という単語にはしゃいでいた彼女たちの意気は一時的にだが消沈する。どんな患者であれ、やはり元気に退院していく姿が彼女たちの働く意欲の源なのだ。
「癌と言えば」
 さくらはひそひそ声になった。
「例の胃癌の患者さん。ほら、純先生の担当を断ったって言う。オペは結局、純先生がやったってホント?」
「ええ、ホントですよ。先生、オペ室からなかなか帰ってこなくって焦りましたもん」
 純はこの席には姿を見せていない。が、赤い顔でテーブルの隅に陣取っては自慢話をまくし立てている小林医師を気にして一同は額を寄せ、内緒話モードになった。
「何だってまた。小林先生が担当するって決まったはずじゃない。しかも、オペ中に小林先生と純先生が喧嘩したとかしないとか、純先生のせいでオペが長引いたとか、ワケわかんない噂が飛び交いまくってるんだけど」
「さっすが田原先輩。情報が早いね〜」
「そうそう! それなんですけどね!」
 美香の揶揄も耳に入らないほど酔っ払った青山通子が一際大声を出した。彼女は経験は浅いものの、一応は手術室ナースを務めている。
「静川先生ってすっごいですねー。先生の機転で患者さんの癌の転移がわかって、結局命を取り留めることができたんだって先輩が言ってました。あーゆー方って、尊敬モノです!」
 声、でかすぎるっつーの! 会話を聞く者すべてが心中でそう突っ込みをいれていたに違いない。
「で、何。二人は本当に喧嘩したの?」
 どんな時も探りを入れることを忘れない美香の鋭いチェック。新米看護婦はにこにこと杯に手酌で冷酒を注ぎ、飲み干して答えた。
「さあ、どうなんでしょ? そのオペを担当したわけじゃないし、そこまではあたしもちょっと」
 さくらと美香は顔を見合わせた。美香がひそひそ声を更にひそめた囁き声でさくらに耳打ちする。
「この患者さんが、ほら。胃を全摘したことで婦長にいちゃもんつけてきた、和石さんっていう人よ」
「ああ! これがあの、かず……!」
 通子を上回る大声でさくらが叫んだ。医師たちを含めた一同の視線が彼女に集中する。が、そこは慣れたもので、先輩看護婦は素知らぬ振りで明るく居酒屋の店員を呼びとめ、周囲の者たちのリクエストを確認するとビールとフライドポテトを追加オーダーした。
「同意書にサインしておいて今更なんで、って婦長がぼやいてたわ。そーか。純先生が執刀したんだ」
「だからですよ」
 抑えに抑えたさくらの声だったが、隣席の美香からではなく何故か向かいの席から応酬の声がかかった。
「境原さん、知ってるの? この患者さんのこと」
 さくらと美香が異口同音に声を上げる。
 美香は同期にあたるこの看護婦、境原アサミをあまり好きではなかった。眼鏡の奥の瞳は小さく陰気で、猫背とあいまって意地の悪い印象を与える。が、彼女はその洞察力や判断力を医師たちに高く評価されていた。それが気に入らなかった、というのもあったかもしれない。
「知ってるも何も。何度もお世話しに特別室に出向きましたから。……すんごい爺さんですよ。頭かちかちの」
 クールな彼女に珍しく、疲れたような口調でアサミは言った。
「女はさしでたことをするな。これがあの爺さんのモットーなんです。なまじお金持ちだからそれが通っちゃう。それが証拠に医局もあの人の起こすトラブルには目をつぶってるみたいですし」
 人差し指で眼鏡をずり上げ、彼女はたまった鬱憤を一気に吐き出した。アサミを好きでないことも忘れて美香は思わず彼女に同情していた。──結構、ストレスあるんじゃない。これからはちょくちょく声をかけて話をしよう。
「ご家族はどんな方たちなのかしら」
 ふと呟いた。優秀な彼女をこれほど悩ませる頑固爺さんに家族がどう接しているのか興味があった。
「わかりませんね。お見舞いにいらしてるのを見かけたこともありません。そういえばオペ当日もそれらしい姿を見ませんでした。……気にならないんでしょうかねえ」
 最後に付け加えられた一言には看護婦としての苦悩がにじみ出ていた。美香は心からその意に賛同した。
 
「ね、田原先輩。あたし、まだオペ立会いはさせてもらえないんです。どうすれば立ち合わせてもらえると思います?」
 さくらは青山通子につかまっていた。美香とアサミの会話も気になるが、そこは酔っ払っていても病棟ナースである。彼女は美香たちの会話に耳をそばだてながらも通子の相手をしていた。早い話、患者と喋りながら医師の指示を仰ぐようなものだ。看護婦は患部だけをにらみつけていれば良い医師とは違うのである。
「そういえばあんたって、希望して手術室ナースになったんだっけ。じゃあ今は何をやってるのよ?」
「えーと。術前の採血とか、血圧測定とか、吸引管を片付けたりとか、あと色々です」
「それのどこが不満?!」
 楽そうでいいなあ、などと不埒なことをさくらは考えた。でも手術室ナースっていうのは……。彼女は気が進まなかった。
「ねえ。どーしてオペ立会いなんてやりたいワケ?」
「夢なんです! 『メス!』、『ハイッ!』、ぱしっ!、て先生に手渡すの。カッコいいじゃないですか〜」
 身振り手振りをまじえて甲高い声でそう言い、うっとりした表情になる通子にさくらはげんなりした。
「ドラマの見過ぎじゃないの。言っとくけど、うちの病院には織田裕二みたいな先生はいないわよ。ううん、うちだけじゃなくて、おそらく日本中どこを探したってね」
「えーーーーーっ!!」
 再度の耳をつんざく大声。通子は不満げに言った。
「それが目的で看護婦になったのに」
 彼女はため息をつくと、切なそうに大皿のエビフライをつっついた。ソースの小皿をまわしてやりながら、さくらは納得してうなずいた。
「なるほど。オペ室から帰ってきた患者さんの腕が、採血のアザだらけな理由がわかったわ」
 引き続きエビフライを口に放りこもうとしていた通子は箸をとめ、きょとんとした。
「はい?」





「この写真を見てもわかる通り、君の胆嚢ポリープ *は急速な増大傾向にある。ポリープってのは、実はコレステロールの塊だった、なんて事もあるんだが、君は若いから悪性だったりしたら厄介だ。ここまでいい? 質問は?」
「……いえ、大丈夫です」
「胆汁の細胞診 *では……検査、やったでしょ? 悪性細胞は認められなかった。だがポリープのサイズを考えて切除しておこうという訳。それが今回の手術」
「……はい……」
 手術の前日、哲郎は診察室で静川医師の懇切丁寧な説明に耳を傾けていた。彼女の口調は淀むことなく流れ、あの夜、自分が告白したことなど純はもう忘れているのではないかと彼は思い始めていた。
「これがなあ……」
 彼女はボールペンの頭でエコーの写真をなぞった。
「このポリープだけが突出して大きいんだよ。これさえなければ経過観察で十分なんだが。どうも気になる」
「はあ」
 気のなさそうな哲郎の返事に純は肩をすくめた。ちょっと脅かして見ようか、と思う。
「胆嚢というのは事前の診断が難しい臓器でね。開けてみて初めて切除範囲が肝臓や胆管にも及ぶ状態だとわかることもあるんだ。つまり……」
「取ってもらって構いません。肝臓でも心臓でも、純先生にだったら何でも」
 脅かし文句を続けて説こうとしていた静川医師は肱掛椅子の上でずっこけそうになった。彼女の患者はプラセボ *が効くタイプならしい。
「信頼してもらうのは有り難いが、きちんと説明は聞きなさい。まあ、君の場合、そんな事はまずあり得ないけどね」
 そう言ってから、純は困ったように笑った。
「……そうか。あの晩のことはやっぱり、本当にあったことなのか。おかしな夢を見ただけだと思っていたよ」
 哲郎はほっとして彼の主治医兼想い人を見た。気恥ずかしくもあったが、信じてほしいという思いのほうが勝った。
「あの時言った事は本当です。でも、確かに夢みたいな出来事だった。先生を抱き締めたなんて……」
 プルルルル、プルルルル
 診察室の窓際に立ち、すっかり気配を消し去って事の成り行きを見守っていた美香は、不意に鳴り出した内線電話の呼び出し音に心の奥底で舌打ちした。
「はい……はい。お待ちください。純先生、お電話です」
 看護婦は医師に電話の子機を手渡した。その顔には“せっかくいいところだったのに”と書かれている。
「ちょっと失礼。……静川です」
 子機を受け取った純は幾分小さな声で、「はい」と繰り返し、最後に「わかりました」と言うと電話を切った。彼女は子機を美香に返してそのまま顔をひょいと患者に向け、言った。
「他に質問は? 但し、オペに関する質問のみ」
 気圧されたように首を横に振る哲郎を見、彼女はうなずいた。
「今夜はよく眠っておきなさい。じゃ、ベッドに戻っていいよ」


 看護婦を従え、静川医師はとある病室の扉の前に立っていた。がらがらと音を立てて扉を開く。
「失礼します」
 室内にはソファにローテーブル、脇には細い足の優美なスタンド。出窓には黄色いバラの切花が生けられていた。窓の反対側にあるパウダールームには洗面台、トイレ、ユニットバスまで揃っている。
 明らかに他の病室とはグレードが違う部屋。その中央に置かれた木製のベッドでじっと横たわっていた年老いた男性が顔をこちらに向けた。
「具合はどうですか? 和石さん」
「……どうしてあんたが。小林先生はどうした」
「小林先生は本日、お休みです。伊藤先生は学会に出席中。どうにもやりくりがつかなくなったもので、医局が私に泣きついてきまして」
「仕方なく出向いてきたと言うわけか。ふん、小娘が偉そうに」
 自分は小娘という年齢ではないのだが。一応、気を遣ってスニーカーはヒールに履き替えてきたのだが、効果はないようだ。
「あんた、儂の手術に立ち会ったそうだね」
「小林先生に請われました。和石さんもご納得の上だと思ってましたが」
 やや年配の看護婦が丸っこい指を素早く動かして血圧計を老人の腕に巻きつける。べりべり、べりっというマジックテープの音が遠慮がちに医師と患者の会話をかき乱した。
「……上175、下110です」
 彼女はうなずいた。看護婦は電子式の体温計を取り出し、やや硬さの残る笑顔を患者に向けて言った。
「お熱をはかりますので、ちょっと失礼しますわね」
「ああ……」
 大儀そうに身体を傾けた老人の脇の下に素早く体温計が差しこまれた。
 純は窓際に置かれたバラがしおれかけているのに気づいた。投げ入れの花瓶のガラスを透かして濁った古い水が見える。
「儂の胃を摘出しろと主張したそうだね。しかもそのことであんたは院内で鼻高々だそうじゃないか。
全くいい気なもんだ。こちらは飯も食えん。痛みは小林先生が出してくれる薬で何とかなっているがな」
「食事はそのうち取れるようになります。最初は思うようにいかないかもしれませんが、そう……、大体、数ヶ月もすれば慣れますよ」
「食事を取れるようになっても儂の胃は戻って来ん。取ってしまったのは、あんただ。残してくれと言ってあったのに!」
 和石氏は病身とは思えない明瞭なハイトーンの声音で医師を責めた。無言の彼女に、図星だろうとばかりに彼は薄笑いを浮かべた。
「……担当を外されたことに対する腹いせのつもりか」
 患者の脇に佇んでいた純はふいっと顔をそむけた。看護婦はとうとう彼女の堪忍袋の緒が切れたに違いないと慌てて身構えた。が、純は出窓に近づくとバラの花瓶を手に取り、すたすたと洗面所へと姿を消してしまった。
 やがて体温計がピピッ、ピピッ、と計測終了のアラームを発する。デジタル表示を覗きこむ彼女に、部屋に帰ってきた純が肩越しに話しかけた。
「いくつだ?」
「37.6度です」
「……未だ、下がらないか」
 呟くと、静川医師は老人に向き直り、言った。
「昨夜と同じ薬を出しておきます。あまり痛みがひどいようだったらナースコールを押してください。それから……」
 窓際に花瓶を戻し、彼女は言を継いだ。
「胃を全摘したのは、和石さん。あなたの命を助けるためです。他の理由なんか、ありゃしませんよ」
 花になど注意もくれず、患者は黙ったままじっと天井を見つめている。その目に希望は宿っていなかった。
 来た時と同じように、看護婦を従えて医師は部屋を出ていった。
 
 後ろ手に扉を閉め、小さくため息をついて顔を上げた純は、目の前に立つ人物に気づいて瞬きをした。
「……星野くん?」
 哲郎は唇をかみ締めて彼女の背後にある白い扉をにらみ付けた。やにわに医師の腕をつかむと、彼は言った。
「行こう」
「行くって、どこへ?」
 慌てる純を引っ張って哲郎は足早に歩き出した。ちらっと背後を振り返り、怒鳴る。
「静川医師、これより30分間の休憩に入ります!」
「……」
 呆然と立ち尽くしていた看護婦は声をかけられてはっと我に返った。件の二人は早足から駆け足へと歩調を早め、見る間にその背中は遠ざかっていく。
 やがて廊下の向う側にたどり着くと、逃避行よろしく彼らの姿は非常階段に通じる扉の奥へと消えた。
「……こ、こらーっ! どろぼーっ! 先生を返しなさいーっ!!」
 彼女の裏返ったキンキン声が、病院の廊下にこだました。
 
 今、一日を照らした太陽は西に傾きかけ、空に浮かぶ雲を濃い橙色に染めていた。頬を過ぎる風は刻一刻と冷たさを増していく。
 外来受付時間が終了し、人気のない病院の駐車場。その一角で二人は荒い息をついては戸外の澄んだ空気を胸一杯に吸い込んでいた。
「ああ、びっくりした。星野くんって名前だけじゃなくて、やることも勇ましいんだな」
「……名前ってところは余計です」
 彼のいらえに純は声を立てて笑った。寝巻きの上に羽織ったカーディガンと白衣とが夕風になびいた。
「回診をすっぽかしたのなんて初めてだよ。何かあったら星野くんのせいだからね」
「先生が忙しすぎるからいけないんです。かっさらいでもしなきゃ、話をする暇もないんだから」
 悪戯っぽそうな彼女の瞳を見つめ返して哲郎はわざと拗ねてみせた。純の笑いが収まるのを待って彼はおもむろに口を開いた。
「ここ、好きなんでしょう?」
「ああ、うん。まあね」
 彼女は曖昧に返事をした。駐車場の敷地を囲むようにぐるりと植えられたキンモクセイが華やかな香りを放っている。夜に近づくごとに香りもまた濃厚に、妖艶になっていくようだった。
「すごい香りですね。胸の中まで金色になりそうだ」
「……キンモクセイ、か」
 純は空を振り仰いだ。夕刻の太陽が穏やかな顔つきで彼女を見守っていた。
「花はこんなに小さいのに、とても豪奢な香りだろう。それでいて可憐で、人を包み込むように優しくて」
「……」
「この香り、とても好きだよ。自分に無い物ねだりってやつかな」
 彼女はじっと哲郎を見た。黙ったままの彼に医師は言った。
「立ち聞きしてたのか? 和石さんとの話」
「……すんません」
 哲郎は素直に頭を下げた。診察中にかかってきた電話が気になって彼女の後をつけたことは黙っていたが。
「あの爺さんはああ言ってたけど。でも、純先生が胃を丸ごと摘出して、そのおかげで爺さんは助かったんだって。おれは噂でそう聞きましたけど」
 純は一瞬、ひどくつらそうな顔をした。が、すぐにいつもの医師の顔に戻った。素足にスリッパを引っ掛けただけの患者の足元を一瞥し、彼女は言った。
「もう戻ろう。君の身体に障る」
 踵を返しかけた静川医師の背中に彼は大声で呼ばわった。
「おれが知ってますから」
 橙色だった雲は淡いピンク、パープル、そして群青色のグラデーションへと姿を変えつつあった。
 哲郎の声に振り返った彼女の姿は黄昏の光の中でいつにもまして小さく、儚げに見えた
「純先生がさっきの爺さんを助けるために死に物狂いだったってこと。
おれのベッドの脇で疲れて前後不覚に眠り込んじゃうほど。
生命のためなら誰にそしられようが、何と言われようが構わないって思いつめてることも。
爺さんにはわからなくても、おれが知ってます」
「星野くん……」
「だから、おれには隠さないでください。
黙って我慢してないで、おれには言ってください。本当はすごくつらいって。傷ついてるって。
純先生は患者のあんな様子を見て平静でいられるような人じゃない。
隠したって無駄です。先生のそういうトコ、おれにはわかっちゃうんですから。
それとも……」
 唇が震えた。自信のない青年は、だが思いきってその問いを口にした。
「……それとも、おれなんかじゃ駄目ですか?」
 彼女は目を伏せた。まつげが頬に濃い影を落とした。
「君には、かなわないな」
 純は呟いた。
「全摘は適切な処置だった。確信を持って今でもそう言える。が……、ああ言われると、辛い。確かに和石さんの胃はもう戻っては来ないのだから。
自分の判断を疑いたくなる。クランケのメンタル面を考えれば、何とか胃を残して化学療法 *による治療を模索すべきだったのじゃないかって。
そして全摘を主張したのは私なんだと改めて思い知る。あんな風に責められることはとても辛いよ」
 苦しげな独白の後、自分から顔をそむけてその場を歩み去ろうとする彼女の身体を哲郎は腕を伸ばして捕まえた。
 彼の手から逃れようとする純の両腕を掴み、強引に抱き締める。キンモクセイの香りに混じって微かに消毒薬の匂いがした。
「や、嫌……やめて……」
「駄目っス。おれ、もう、止まんない」
 彼の腕にきつくかき抱かれた純は赤くなってぼそぼそと言った。
「私は君が思うほどピュアな人間じゃない。君が言うほど一途でも、清らかでもないんだ」
「そんなことでおれがこの手を離すと思ってますか? おれはいつもの純先生より、弱さを曝け出した今のあなたの方が好きです」
 やがて彼女は哲郎に抗うのをやめた。純がおずおずと小さな温かい身体を委ねてくるのを彼は喜んで受け止めた。
 すっかり日は落ち、冷えた空気が二人の身体を包む。空には星が瞬き始めていた。
 そうやって彼はしばらくの間、主治医を抱いていた。


 手術当日のことは、哲郎はよく覚えていない。
 オペの助手だの麻酔科の医師だのが入れ替わりに現れ、早口で妙な専門用語をまくし立てたことや、ストレッチャーでオペ室まで運ばれる際に外来患者の視線が痛かったことなどが、何となく記憶の片隅に残っているきりだ。
 オペ室では青い手術着をまとった純が待っていた。彼女はいつものあの悪戯っぽい笑みを浮かべ、瞳でうなずいて見せた。
 他の記憶は、吸入器から湧き出る白いもやと共に溶けていってしまった。
 次に目覚めた時、耳元でしきりに何か聞こえていたように思う。が、それも曖昧な記憶だ。
「……のくん。ほしのくん。……ほしのてつろうくん……」
 う、うーん……。誰だよ、おれの名前を連呼するヤツは……。
「星野哲郎君、聞こえる? 聞こえたら声は出さなくていいから、合図しなさい」
 おれの名前をフルネームで呼ばないでくれよ。頼むから。
 恥ずかしいんだよ。
 アニメの中じゃ、星野鉄郎ってヤツは母さんにうりふたつの女性に一目惚れしたっていうじゃないか。
 おれの母さんなんか、おばちゃんだぜ。あんなのに惚れるなんて真っ平だぞ。
「星野くん!」
 哲郎はうっすらとまぶたを開いた。すると目の前には心配そうに彼を覗きこむ静川医師の顔があった。
「メーテル……」
「え?」
 微かな呟きを残して再び目を閉じた哲郎に純は目をぱちくりさせた。看護婦の一人が苦笑して言った。
「先生。哲くん、ちゃんと聞こえてますよ」
 彼女は腑に落ちない顔で再度、患者に呼びかけた。そっと肩を揺すってみる。
「星野くん、聞こえる? 輸血するけど、いい? *
 そんなこと、今のおれに聞くなよな。
 おれは眠い。身体が鉛のように重い。何も考えられない。
「いいです……やってください……」
 思いの外はっきりした返事が返って来た。
 彼はそのまま、深い眠りに落ちていった。
 
「あ〜あ。あたし、応援してたんだけどなあ」
「え? 何を?」
「哲くんですよ。ほら、胆嚢ポリープ切除のオペした患者さん」
 ナースステーションで仕事机につき、美香は落胆のあまり大きくため息をついていた。
 美香より二年先輩にあたるさくらは後輩の向かいに席を占め、申し送りの資料を確認しながら、ああ、と相槌を打った。
「純先生のこと、いきなり口説いたっていう、あの男の子ね。今日、退院だったっけ?」
「そうなんです。あの二人の緊張感溢れる会話をもう聞けないのかと思うと、淋しくて」
「橋本。アンタ、悪趣味……」
 古参の看護婦であるさくらは純の性格を良く知っている。彼女は笑って言った。
「でもさ。相手が純先生じゃあ、難しかったんじゃない? 先生は純朴なひとだから何言われてもぴんと来なかったと思うよ」
「そう! まさにそれ! しかも哲くんの方も純情な子なんだなあ、これが」
「致命的だね」
 さくらはやれやれと頭を振った。
「うん、致命的」
 美香は深くうなずいた。
「純先生、実はいい女なんだけどね。顔もスタイルも性格も」
「うん」
「可愛い、なんて言われて頬を染めてたんでしょ? アンタの横で」
「うん」
「まったく焦れったいよね。いいトシしてさ」
「うんうん」
「田原さん」
「はいっ?!」
 先輩看護婦に突然声をかけたのは純だった。彼女はナースステーションに首を突っ込むとさくらの顔に視線を合わせて言った。
「和石さんの血液検査の結果がまだ届いてないよ?」
「あっ! すみませーん! 今行きます!」
 席を立ち、看護婦はそそくさとナースステーションを出ていった。ぽつんと残された美香に医師は邪気のない顔で言った。
「悪いね、話の途中で」
 美香はすまして答えた。
「いえいえ。大した話じゃありませんから」
 
 内科に外科に消化器科、整形外科から放射線科、小児科まで揃った総合病院の待合室に立ち、哲郎は物思いに耽っていた。
 待合室は多くの外来患者でごった返していた。並べられたベンチシートはほぼ埋まっており、部屋の中央に置かれた熱帯魚の水槽には幼い子供たちが群がっている。
 退院とはいえ、自分で車を運転して帰宅するのはまだ無理である。会計を済ませてくるからと姿を消した母を待つ間に公衆電話でタクシーを呼び、少しの時間を持て余した彼は先ほど受けた入院生活最後の診察を思い返していた。
 抜糸の済んだ傷口は未だにぴりぴりと神経を刺激した。退院時はスキップして病院を出て行くのが常だと静川医師には言われたが、哲郎の傷口はそれを許してくれそうになかった。
 洗いざらしのチノパンに白衣を羽織ったラフないでたちの彼女は診察室の肱掛椅子の上でスニーカーのつま先を横に向けて足を組み、こちらを見ていた。あまり行儀が良いとは言えないその格好で、純は低く笑った。
「オペが上手くいって、本当に良かったよ」
「……はい」
「良性のコレステロールポリープだったのは良かったんだけど、胆嚢に軽い癒着があってね。軽いとはいえ、大変だったんだよ? 腹の中を細かく切り刻んだ後、縫い合わせた状態になってるよ、今」
「はあ。ご迷惑、おかけしました」
「いやいや。じゃあ、薬を出しておくから、ちゃんと飲むように。それから、1ヶ月後には検診に来るのを忘れるなよ」
 事も無げに彼女はそう言い、「お大事に」という看護婦の声と共に哲郎は診察室を追い出されてしまった。
 彼は待合室の壁に寄りかかり、窓外を眺めた。
 景色はすっかり冬へと移り変わり、鈍色の雲が低く空に垂れ込めている。向うに見えるキンモクセイの低木の根元には、あんなに散り敷かれていた金色の花のかけらさえ今は見当たらなかった。
「女ってのは、よくわかんねーなー」
 敗北感が滲んだ。……これで、終わりなのだろうか。
「何をぶつぶつ言ってるのよ?」
 不意にかけられた声に哲郎は顔を上げた。そこには小柄な中年の女性が立っていた。
「いーの。母さんには関係ないこと」
 明るい茶のコートを身にまとい、笑顔を湛えたその女性には小さな野の花のような風情があった。哲郎は母の手から荷物を受け取ろうとしたが、彼女はかぶりを振った。おっとりした雰囲気を裏切るさばさばした口調で母は言った。
「哲ちゃん、身体がまだ本当じゃないでしょ。荷物くらい任せなさい。そのために来たんだから」
「大袈裟なんだよ。今日だって、わざわざ来ることなかったのにさ」
「そんな訳にはいきませんよ! お世話になった先生や看護婦さんたちにもご挨拶しなくちゃならないし。……で、なに。何がわからないの」
「ちぇっ。聞こえてたんじゃないか。いいんだって」
「いいことありませんよ。病気の事でわからないことがあるんだったら、しっかり先生に聞いておかないと」
「純先生に聞けるものなら、とっくに聞いてるよ」
 口をとんがらせる息子を見、母は首を傾げた。
「何を遠慮してるの。静川先生には聞きづらいことなの?」
 彼女は眉間にしわを寄せた。慌てて否定しようとする哲郎より先に口を開き、母は言った。
「実は母さん、あなたの手術の話を聞きに静川先生を訪ねたことがあったの。
でも病院の中で迷っちゃってね。ちょうど廊下ですれ違った女の子に先生の診察室まで案内してもらって。
そうしたら。その女の子、診察室の椅子にすとんと座ってしかつめらしい顔してこう言うのよ。私が医師の静川です、って。
可愛らしくってお医者様のイメージじゃないってつい言ったら、親子して同じこと言いますね、って笑ってらしたわ」
 くすりと思い出し笑いをした彼女の目元に笑い皺が寄った。荒れ気味の手をさすり、左薬指の指輪をいじりながら母は言った。
「でも、立派なお医者様だったわよ。手術のことやあなたの病気のこと、わかりやすく丁寧に説明してくださって。
あの先生なら、きちんと哲ちゃんの不安を受け止めてくれるわ。
哲ちゃんが何を心配してるのかわからないけど、大丈夫。静川先生を信頼してらっしゃい」
 彼女の言葉は野を過ぎる一陣の風のように哲郎の胸にある迷いを吹き飛ばした。そうだ。純に不信感を抱いているのは自分のほうだったのだ。
 あの時、純の気持ちに触れることが出来たと思う。
 医師という名の仮面をなかなか外さない彼女の真情をやっと耳にすることが出来た。
 遠慮がちに摺り寄せられた彼女の身体のぬくもりを忘れたりはしない。
 なのに今になって彼女の心を図りかねた。彼女に裏切られるのではないかとあらぬ事を想像していた。
 純を信じていなかったことに気づいた哲郎は自分を恥じた。
「今からでもお願いして、話を聞いてきたら」
 黙り込んだ彼を母は促した。
「いや、いいんだ。今はいい」
 あのひとならきっと自分の気持ちを受けとめてくれる筈だ。
 だから、今は黙って引き下がろう。思いはぶつけるのではなく、心にしまっておこう。
「本当に、いいの?」
「うん」
 うなずく哲郎に、ある決意が生まれていた。
 程なく到着したタクシーに乗り込み、親子はその総合病院を後にした。緩やかな発車の後、急速にスピードを増すタクシーから、哲郎は遠ざかっていく四角張った物静かな病棟を振り返った。
 腹の傷口と共に胸も痛まないわけではなかったが、車中で父や妹のことを話す母に相槌を打つ彼の表情は明るかった。
 これで終わりなんかじゃない。哲郎は何度も心の中でそう繰り返していた。


「お疲れ様、静川先生」
「ああ、青山さん。お疲れ様」
 かけられた挨拶に気さくに答えながら、純はほの明るい夜明けの病院の廊下を歩いていた。医師控え室に入ると白衣を脱ぎ、私物の詰まったロッカーに放り込んで扉をがちゃりと閉める。
 厚手のステンカラーコートを羽織り、トートバッグを肩に引っ掛けたいでたちで彼女は職員専用の出入り口から一歩外に踏み出した。夜間当直明けの太陽が眩しかった。とはいえその日の朝は曇り空で、容態の思わしくない患者に一晩ずっと付き添っていたことが光が目に沁みる原因だったのだが。
 純はちらりと腕の時計を見た。眠くてたまらなかった。早朝の上り電車なら、車中でゆっくり眠ることが出来るだろう。
 プァン、プァーン
 まだ人通りの殆どない道を歩き出した彼女の背後でクラクションが鳴り響いた。振り返ると、車道の脇に停められた軽自動車の運転席で見覚えのある人物が頭を下げてみせた。
 ああ、あの青年は……。
「おはようございます。純先生」
 ゆっくりと彼女の傍らに車を横付けし、照れ隠しにこほんと咳払いをしてみせる哲郎の姿に彼女は我知らず微笑んだ。辛い時、しんどいと思った時に彼は現れる。
「おはよう、星野くん。外来の時間にはまだ早いよ?」
「いえ、そうじゃなくて。……今日は、先生にお願いがあって来たんです」
「お願い?」
 彼の緊張した面持ちに純は首を傾げた。当直明けの朝に現れるというのも考えてみればタイミングが良過ぎる。
「来週には検診じゃないか。その時、ついでに言えばいいのに」
「あ、すみません。疲れてるトコ呼びとめて」
「いや、それはいいんだが」
 純は車のハンドルを握り締めた青年の手が汗で濡れているのに気がついた。もしや具合が悪いのだろうか。
 車のルーフに手をかけ、サイドウインドウから運転席に首を突っ込んで彼女は哲郎の青ざめた顔を見やった。
「星野くん? 一体、どうし……」
「純さん」
「……うん?」
「おれと、結婚してください」
 がつっ
 運転席の天井にしたたか打ちつけた純の後頭部が鈍い音を立てた。
 ひりひりする頭を左手でさすりながら、冷えこんだ初冬の朝の空気の中で静川医師は眠いのも忘れて突っ立っていた。呆れて声も出なかった。
 そんな彼女の反応に彼は頭を掻いてしどろもどろに言った。
「おれはまだ学生の身分だし、結婚できるのは卒業して、就職してからですけど」
「……」
「ちゃんと就職して……そりゃ、お医者の稼ぎには負けるかもしれませんが、働いて。必ず幸せにします」
「……」
 彼は更に言い募った。
「おれ、病気してこのあいだ手術したばかりだけど。経過は順調で、もうこの通りぴんぴんしてますから」
「そんなことは言われなくても知ってるっ!」
 やっと言葉を発することが出来た。拝み倒すような哲郎の顔から視線をそらし、彼女は全開されたサイドウインドウのふちに頭をもたせかけて考え込んだ。この世間知らずのおっちょこちょいを一体どうしてくれよう。
「星野くん、聞きなさい」
「はい」
 噛んでふくめるような口調に彼は身震いした。やっぱり断られるのだろうか。
「……静川、純。何歳だと思ってるのかは知らないが、実際は32歳」
 純は年下の求婚者の表情を覗った。哲郎はきょとんとしたまま耳を傾けている。
「臨床経験は7年。その間に看取ったクランケの数は両手両足じゃとても足りない。そうは見えないかもしれないが、今までに何人もの男と付き合った。ふられたこともある。……セックスの経験だってもちろんあるよ」
「……」
「こんな女だが。私に君の車の助手席に座る資格があるのか?」
 青年は顔を上げて意中の人の真っ直ぐな瞳を見た。彼女を思うと胸の内側が温かくなる。彼女と二人でなら何でも乗り越えられそうな気がした。それに比べれば年齢や過去が何だというのだろう。
 そんなことよりも、彼女の問いかけの意味の方が気になった。まさかと思いながらも彼ははっきりとうなずいた。
「あなたに座って欲しいんです」
 純は目を閉じ、ふうっと大きく息を吐き出した。やがてまぶたを開くとそばかすの散った鼻に皺を寄せ、彼女はにやっと笑って見せた。その笑顔にいつもの大胆不敵さが欠けているのは紅潮した頬のせいだろう。
 純は横を向いてしれっと言った。
「……助かった。実は眠くてふらふらなんだ」
 彼女は軽自動車の逆側にまわりこむと、助手席の扉を開けてシートにすとんと身を沈めた。半分目を閉じて純は呟いた。
「日野7丁目。家まで送ってくれるだろ?」
「お安い御用です。……でも、料金は先払いですよ」
 哲郎はまどろみに落ちていこうとしている彼女の上に覆い被さった。僅かな身じろぎで純はそれに答えた。
 だんだん熱を帯びてくる唇から自分のそれをやっと離して、彼は彼女の頬にかかる髪をそっと払った。目を開かない純の狸寝入りをひとしきり眺める。
 しばらくするとすうすうという本物の寝息が漏れ聞こえてきた。
 素直に彼に全てをあずけ、純は完全に眠りこんでいた。そう言えば、初めて口付けをかわしたときも彼女は寝息で哲郎の唇を迎えたものだった。
 エンジンをかけ、ギアをDに入れて青年は車を発進させた。やがて彼の胸には嬉しさがじわじわとこみ上げてきた。
 時刻は早朝から忙しい朝の時間へと移り変わりつつあった。人通りの増していく脇道をすり抜け、軽自動車は大通りに向かって走り去っていった。
『役に立たない医療用語解説』『ドクター・ピュアガール マニアックス[1]』







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    −ドクター・ピュアガール[1]− 著者:冨村 千早 脱稿:2002.12.01

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    この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。