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ピッ! ピッ、ピッ……。 無機質な電子音を立て、時おり赤や緑のランプを点灯させては、自動改札機が次々と押し当てられる定期券に反応する。 「まもなく4番線に電車が参ります。黄色い線の内側に……」 すっかり言い慣れた口調の駅員のアナウンスが人々のざわめきと共に、階下のプラットホームから立ち昇ってくる。程なく、車両が空気を切り裂くごうっという金属質の音が足元から伝わった。列車を迎えて振動するコンクリの地面を踏みしめ、その女性は人の流れのままに歩を進めると、定期券を改札機の読み取り部分にとんと押し当てた。雑多なようでいてその実、整然と同じ動作を繰り返している夜の駅は、まるでそれ自体がひとつの臓器のようだ。 ピ。 細い指先であてがわれた定期券を改札機が読み取った。必要以上に肩をひねり、きっと前を見すえて彼女は歩き出した。すらりと背の高い後姿を波打つ長い髪が彩る。 品川で山手線に乗り換えて10分弱。大都会の真っ只中に彼女の家はあった。夜更けの道は金曜日とは思えない静けさで満ちており、ミュールがたてるかんかんという靴音がいやに派手に耳を打った。橋の下を流れる黒い水が街灯の明かりをはね返してねっとりと光っている。 女性は橋を渡り、マンションの玄関へと足を踏み入れた。エレベーターの扉に映った自分の顔にふと気づき、凝視してみる。我の強そうな瞳に見つめ返された。イヤだなと思った。 慣れた手つきで部屋の鍵を開け、赤いミュールを脱ぎ捨てた彼女はまっすぐに奥の寝室へと向かった。小さなベッドに身を投げ出すと、ううん、と吐息が口から漏れた。シーツが頬に冷たい。様々な思考がとたんに渦のように頭を埋め尽くした。一週間前のこと、数日前のこと、昨日のこと。ついさっきのこと。やがて思考は、遂には訣別する他なくなった人の形をとって、脳裏のほぼ全域を占領した。 二人は確かに惹かれ合っていたと思う。だが、一見すると薬指にすんなり収まるかに見えた銀色のリングは、実はまるで彼女の指には小さすぎた。それに、そもそも彼はそのリングを自分の指にはめてくれる気もなかったのだ。 つややかな唇がささやいた。自分に言い聞かせるように。 「……これで、よかったのよ」 そう、これでよかったのだ。なぜなら二人は──少なくとも私は、堂々巡りする思考を断ち切ることが出来たのだから。彼女は唇をかみしめ、小さく付け足した。 「私だって一人の女よ。甘えさせてもらいたい時もあるし、見逃してほしい打算だってあるわ」 「あ……、謝ればいいとでも思ってるの? ごめんの大安売りなんて、もう沢山よ!」 突然の大声に涼子は目を大きく見開き、店の扉を注視した。 拳を握り、頬を上気させた女性が路上に立ち尽くしているのがガラス扉の向こうに見えた。背の高い彼女の肩にやすやすと手を置いた、こちらも背の高い男性が何か言っている。扉に背を向けた彼の表情はうかがい知れないが、前のめりの姿勢から必死の形相を浮かべているのは容易に想像がついた。 が、彼の努力は水泡に帰したことがじきに知れた。 ばっちーん! 「そうやっていつまでも後ろを振り返ってればいいのよ。トシクニの馬鹿!」 遠目にもわかるほど、相手の頬を打った平手がわなわな震えている。彼女は光る瞳で男性をきっと見すえた。次の瞬間、赤いミュールがくるりと踵を返した。 長い髪を揺らし、女性はかんかんと靴音を立てて走り去った。彼女の背を視線で追いつつ、取り残された彼はわずかに赤くなった頬にそっと手をやった。 (あ) 涼子はその横顔に記憶を揺り起こされた。見覚えのある顔だ。 (あの人、いつもお店でケーキを買っていく人だ) 年の頃は20代後半か、30代前半といったところか。ケーキを注文する時はいつも仏頂面でこう言う。 「いちごのショートケーキ、2個」 何だかあごでこき使われているようで、涼子は彼の注文を聞くのが不快だった。こんな人と一緒にケーキを食べるのは誰だろう。そう思っていた。 生真面目そうな眉が曇っていた。いつも素っ気ない言葉を吐く口元がぎりっとかみしめられている。 と、女性の走り去った方向を凝視する目が、ふと伏せられた。 (……涙?) 呆然とする少女をよそに、男性はそのまま彼女の視界から歩み去った。ポケットに手を突っ込んで大儀そうに身体を揺らす特徴のある歩き方には、諦めたような無力感が漂っていた。 春の突風がガラス扉をがたがた鳴らす。その風もまた、扉を開くことなくそのまま通り過ぎていった。 「ちょっと。注文いいかしら」 「あっ、はい」 初老の上品そうな婦人の声が涼子の意識を現実に呼び戻した。彼女は早速エプロンの胸ポケットからボールペンを取り出し、プラスチック製のバインダーにクリップされたオーダー表に目を落とした。 ここは『レマン』店内。駅前に位置する小さな洋菓子店だ。涼子の左横では彼女と同様、アルバイトの女子高生がお客の注文に耳を傾けている。店の奥では女性のチーフが陣取って、伝票整理の合間に彼女らの仕事ぶりをながめていた。 「1300円になります。……ありがとうございました」 ケーキの収まった白い紙箱を手に婦人が立ち去るのを見送ると、閑散としたガラスケースを見つめて涼子はふう、と息をついた。すぐそこの駅に列車が到着すると、店にはしばらくの間、客足が途絶えることがない。特に閉店間際のこの時間は、人気のあるケーキから順に売り切れるので、お目当てのケーキを手に入れようとお客が押し寄せるのだ。が、それもようやく一段落したようである。 彼女はちらりと壁の時計を盗み見た。デジタル時計のグリーンネオンが20:53を示している。本当なら、この頃になってそろそろ彼は現れる。人混みを避けるように、大儀そうに長身を揺すって。そして言うのだ。 「いちごのショートケーキを2個」 良く言えばスタンダード、悪く言えば平平凡凡のいちごショートはまず売り切れることがなかった。「ミルフィーユ・オ・フレイズはもうないの?」などとごねるOLを横目に、涼子は赤と白の色彩鮮やかなケーキをつまんでは箱に収めたものだ。 彼は買って帰ったケーキをあのロングヘアの女性と一緒に食べていたのだろうか。自分には見せたこともない優しい笑顔を浮かべて、無骨な手で紅茶をいれて恋人に振る舞っていただろうか。 デジタル時計はとうとう21:00を告げた。閉店時間だ。当然と言うべきなのだろうが、彼は姿を現さなかった。 「石川さん、もう閉店だから。レジを閉めてね」 チーフに呼びかけられて彼女は、右手にボールペンを、左手にオーダー表を握ったままぼんやり突っ立っていた自分に気づいた。さっきまで隣にいたと思っていたもう一人の女子高生の姿は既にない。 (何をしてるんだろ、あたし) 口元だけでこっそり笑うと涼子は店の奥に叫び返した。 「はあーい! チーフ」 翌日もまた、春特有の激しい風が吹き荒れていた。強風が無遠慮にあおる茶色いショートヘアを押さえ、『レマン』の前にたたずんだ涼子は時計を気にしていた。 その日、彼女はチーフに頼みこんで予定よりも早くバイトをあがらせてもらったのだった。実のところ、そうまでする理由が自分でもよくわからなかった。友達に現場を見られたりしたら笑われそうだ。 ……20:53。 彼女の腕のBaby-Gが時刻を告げた。お決まりの時間だ。占うような気分で駅の方角を見やり、涼子は思わず息をのんだ。 来た。“トシクニ”だ。春風から身を守るように黒いジャケットの襟を立てた彼は、いつもの通り大儀そうにその長身を揺すってこちらに歩を進めてくる。 ほんの数秒でトシクニは彼女のすぐ間近までやって来た。黒い目は物思いに沈み、『レマン』にも、ひっそりたたずんだ女子高生にも注意を向けないまま、彼は目の前を通り過ぎていこうとした。もしかしたら、もうお店にも現れないかもしれない。このチャンスを逃がしては──頭をかすめた思いが彼女を突き動かした。涼子は弾かれたように彼に走り寄った。 「あのっ……。ちょっと、すみません!」 「は?」 いきなり眼前に飛び出してきた人影にトシクニは驚いて立ち止まった。どことなく気だるそうな、放心したような表情で彼は涼子を見下ろした。一日の仕事を終えた大人の疲れた顔だった。 「何か?」 「え、ええと。その……」 冷静に聞き返されて彼女の頭の中は真っ白になった。彼がこっちを向いてくれたらああ言おう、こう言おうと胸に反すうしていた言葉はどこかに吹き飛んでしまい、脈絡のないセリフが勝手に口からこぼれ出た。 「あの……、今日はケーキ、買わないんですか」 「あ」 トシクニはぱちりと指を鳴らした。 「ああ、あんた、ケーキ屋の。どっかで見た顔だと思った」 一際激しい風が紺のプリーツスカートのすそをなぶった。顔を覚えていてくれたのだ。春風はシャギーヘアをなぎ払い、彼女の淡く染まった頬をあらわにした。が、それには気づかないまま、事も無げに彼は言った。 「ケーキはね……、悪いが、もう買うことはないと思うよ」 「えっ、それって……」 「ああ、いや。美味しくないとか、そういう意味じゃないんだが」 身を乗り出した涼子をやんわりと制し、トシクニは苦く笑った。昨日の出来事を思い返しているのかどうか、目を伏せると彼は沈黙した。そんな顔をさせたくて声をかけたのではない。涼子は必死で言葉を探した。 「あの、実はケーキのことじゃないんです。あたし、トシクニさんに……」 「おいおい、どうして俺の名前まで知ってるんだ」 「あっ……。昨日、髪の長い女の人がそう呼んでたから」 「見てたのか」 トシクニの顔に浮かんでいた淡い微笑がすっと消え、悪戯っ子を軽くとがめる程度だった口調は吐き捨てるような物言いへと変化した。目には警戒の色がありありと浮かんでいる。 「で、つまるところ、あんたの用件は何だ。こっちは女子高生に用はないんだがな」 素っ気ない、でもケーキを注文する時の声の調子とは違う、突き放すような口調。昨夜、彼の目に光っていたものが脳裏によみがえり、彼女は意を決して口を開いた。 「あたし、石川涼子といいます。東高の3年で……17歳です」 口をへの字に曲げたトシクニの顔を見上げると、涼子はぎゅっと目をつむった。 「あたし、あなたが好きですっ!」 「……は?」 あっけに取られてぽかんと口を開けたトシクニにかまわず、彼女は勢いにのって言葉を継いだ。 「どうしても頭に浮かんできちゃうんです。あなたの声が。 『いちごのショートケーキ、2個』って言うあなたの声が。 すごい無愛想なのに、すごい感じ悪いのに、頭に浮かんできちゃうんです。 それから、お釣りを受け取るあなたの手の形とか。 ……それから、あの髪の長い女の人にぶたれたとことか。 あなたの目ににじんでた涙とか。 どうしても忘れられない。これって、恋だと思う。 あたし、自分でもどうしてだかわからないんだけど、あなたが好きなんです!」 言ってしまった。 と同時に、全身が灼けた鉄の塊みたいに熱くなり、涼子は耳まで赤くなってうつむいた。おそらくは予想もしなかった事態を前に、無言のままトシクニはその場に棒立ちになっている。 が、しばらくの後、彼の口から発せられた言葉は、やはり無愛想で感じが悪いものだった。 「……そりゃ、何だ。コギャルの間で流行ってる遊びか? でなきゃ、エンコーのおとり捜査に協力でもしてるのか」 今度は涼子の方があっけに取られる番だった。彼女はきょとんとして二、三度瞬きをし、やや間をおいてつぶやいた。 「それ……、どういう意味……」 涼子の身体が小刻みに震えているのを見、先ほどの彼女の言葉が掛け値なしの本音であったことをトシクニは悟った。彼は頭をぼりぼり引っかき、気まずそうに言った。 「いや、あんたが本気で言ってくれてるとしてもだ。高校生と付き合う趣味は俺にはないんでね」 「そ……ですか……。そうですよね……」 昨夜のあの女性と比べれば、自分が彼の目に物足りなく映るのも無理からぬことだった。少女の両手は力なくだらりと落とされた。 「悪いな」 駄目押しの一言。湿っぽい雰囲気をおそれたのか、それとも涼子が逆上するとでも思ったのか、わずかに肩をそびやかすとトシクニはそそくさと彼女に背を向け、大股に歩み去った。靴音に紛れて安堵のため息が聞こえたような気がした。 彼の背中が夜闇に溶けて消え去った後、それが習慣になっているかのように涼子は腕のBaby-Gを確認した。21:12だ。たったの19分間。体感では2時間ほど経過したような気がしていたのに。 「やっぱ、マンガみたいにはいかないよね……」 言葉に出してみて初めて自分の涙声に気づき、彼女は目尻にたまった透明な液体を指先ですくい取った。だが涙は次々にあふれ出し、頬をつたううちに熱を失って遂には春風に吹き散らされた。背後からやってきては傍らを通り過ぎていく通行人の一人がちらりと肩越しに一瞥をくれたのに気づき、涼子はあわてて顔中を手の甲でぬぐった。 さも目にゴミが入ったかのように大きな瞳を細め、彼女は自宅に向かって歩き出した。足元から吹き上げる突風が、今はありがたかった。 D組の教室は女子高生たちの騒々しいおしゃべりで満ちていた。6人以上の大きなグループが固まって輪を作っているところもあれば、机を向かい合わせ、額を寄せてくすくす笑っている少女二人のグループもある。これでも最初は、隣の教室を気にして声を潜めるという裁量が働いていたのだが、会話に熱中するうちにそんな気遣いはあっさり吹き飛んでしまったらしい。 つまりここでは、保健体育の自習時間の光景など、休み時間のそれと大して変わりばえはしないという事実が証明されるに至っていた。違いと言えば、授業がC組とD組の女子合同で行われているために、男子生徒の姿が一切見えないということくらいか。 「え、うそっ。えりちゃん、とうとう加賀くんと最後まで行ったんだ」 「ちょっとお。声大きいよ、やっちゃん。やめてよお」 「えー、聞こえたっていーじゃん別に。彼氏彼女なんだし、悪いことしてるわけじゃないしー」 周囲にいるのは女の子ばかりという気安さからか、ちらちらとワイ談っぽい会話も聞こえてくる。涼子は机に突っ伏していた顔を上げた。友達とダベる気分にはなれなかった。トシクニとの出来事が彼女の中でまだ尾を引いていた。 涼子は会話の主の方をちらりと盗み見た。C組の高田恵里が机に腰掛け、友人とおしゃべりに興じている姿が目に入った。数人の女子生徒の中心にいる彼女は大人っぽいしぐさで足を組み替え、「やめてよ、もお」などと言っては友人の一人を軽くぶってみせた。迷惑そうな口調に反して本人の声が一番よく響いている。 「……ウザい」 彼女はこっそりと独りごちた。恵里が付き合っている相手は確か、加賀という同学年の男子生徒だ。加賀ののっぺりした顔を思い浮かべ、次にトシクニのことを考えて涼子は胸中でつぶやいた。話になんないじゃん──とは言え、彼女がまぶたに描いたビジョンを見ることができたなら、恵里にも大いに反論の余地はあっただろうけども。 「こっちは女子高生なんかに用はないんだがな」 ふと耳に彼の声がよみがえった。胸に突き刺さる言葉。……あのロングヘアの女性のことなど、どうして自分は持ち出したりしたのだろう。 何とか思いを打ち明けはしたものの、トシクニが自分の気持ちをわかってくれたとは、彼女には到底思えなかった。彼はからかわれていると思ったか、それとも馬鹿にされたと思っただろうか。告白しない方がマシだったかもしれない。そんな苦い思いに捕らわれては何度も何度も打ち消した。 きっぱり断られたのだから潔く引き下がるべきなのはわかっていた しつこくつきまとって嫌われたりしたらその方が耐えられない。でも。 もう一度会いたい。 程なく授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。が、涼子はかまわず、再び机に突っ伏した。 さっきまでのさわさわしたざわめきに、椅子を引いたり生徒が廊下に駆け出したりする物音が混じり出した。そのうち、彼女の周囲は無遠慮な喧騒に包まれていった。 トシクニが電車を下り、改札を出ると外は雨が降っていた。 気象庁の予報は堂々とはずれてひどい土砂降りだ。携帯電話をかける人、タクシーを待つ人、そして、どうしようかと躊躇する人々で駅の改札前はごった返していた。 絶え間なくコンクリートの歩道に落ちては飛び散る銀色の飛沫を見、彼は背負ったリュックから小さな折畳式の傘を取り出した。この備えの良さは日々の生活から身についたものだった。 一人暮しの独身男はそう簡単に風邪で寝込むわけにはいかないのだ。 ぱちり。 傘を開くと、トシクニはいつもの通り帰路についた。 雨粒が容赦なく肩を叩くが、彼に気にもとめる様子はない。そのまま歩を進めるうち、いつも立ち寄った洋菓子店が前方に見えてきた。 「ね、どうしていつも、いちごを最後まで残すわけ?」 「何度も同じことを聞くなよ」 フォークで生クリームを口に運びながらくすくす笑う彼女の顔が思い出された。が、更に鮮烈な記憶が脳裏によみがえり、彼の思考を支配した。 「あたし、あなたが好きです!」 幼い顔つきで、真摯に投げかけられた言葉。正直、戸惑った。 (あなたが好きです……、か) そんな言葉を自分は彼女にかけたことがあっただろうか。どころか、好きだなんて言葉を口に上せた覚えは、大昔まで記憶をさかのぼってもついぞない。 ぱしゃっと音を立てて水たまりに足を突っ込んでしまい、トシクニは舌打ちした。どうして十代の奴らというのは、ああもなめらかに思っていることが言葉となって口から出てくるのだろう。 姿のよい月桂樹を脇にしたがえたレンガ造りの建物の前で彼は立ち止まった。レンガの壁にはめこまれた看板は消灯され、シャッターの下りた扉には“定休日”と書かれた札がぶら下がっている。 常夜灯がシャッターの表面に黒々と人影を映し出しているのにトシクニは気づいた。厄介ごとは御免こうむりたいところだ。が……。 躊躇したものの、結局、彼はゆっくりと足先の向きを変え、『レマン』へと歩み寄った。そこには案の定、あの女子高生──涼子といったか──がぼんやりとシャッターに寄りかかり、雨模様の空を見つめていた。 「何やってんだ。こんな所で」 言ってからトシクニはひどく驚いた。 「びしょ濡れじゃないか!」 涼子は傘をさしていなかった。少女は頭のてっぺんから足の爪先まで、しとどに濡れた姿で立ち尽くしていた。丈を詰めた紺色のプリーツスカートが白い腿にぴったりはり付いて、どこかなまめかしい。口の中でぽそぽそと彼女は言った。 「だって……。ここで待ってなきゃ、あなたには会えないから」 「だからってな。カサくらいコンビニで買え。せいぜい500円だろうが」 「……そっか……」 「随分、抜けてる奴だな、お前」 涼子の反応のほんわか加減に彼はずっこけそうになった。わずかにでも緊張した自分が情けない。 「今日は何だ。こんなにびしょ濡れになって待ってたってことは、大切な用事なんだろ」 彼女に傘をさしかけながらトシクニは言った。涼子は例によって何とかうまい言葉を見つけようと、ぐっと唾をのんだ。 「あ、はいっ。……え、えっと、その……」 「あわてなくていい。落ち着いて言え」 彼女は目の前に立つ無愛想な男を見やった。ふと、頭上でシャッターが激しくガタガタ鳴っているのに気づき、涼子は再び彼に視線を移した。トシクニは自分の顔の横に手をつき、その長身で彼女に覆い被さるようにして立っていた。 彼の傘と身体とが、自分を風雨から守っている。 「で、何だ」 トシクニはこほんと咳払いをした。涼子はおずおずと手を伸ばし、黒いジャケットのすそをそっとつかんだ。 「あの、あたし、あなたに嫌な思いをさせるつもりはなくて。あ、あなたが……」 上目遣いで表情を盗み見た。が、今日の彼は別段、機嫌を損ねている様子もない。 「……あなたが、すごく可哀相だと思ったの。あなたの顔を思い出すと、なんだか胸がちくちくして、すごく辛くなってきて。あたし、ただ……」 「……」 「元気を出して、って言いたかった。いつものトシクニさんに戻ってほしかった。……それだけです」 「……それだけか」 トシクニはそう言うと視線を足元に落とした。革の色が変わるほど雨が靴に染み込んでいた。降り注ぐ雫がレンガ敷きの地面にあたってはぴしゃぴしゃとズボンに跳ね散っている。やがて彼は笑い出した。喉のあたりが妙にくすぐったかった。 「お前、変な奴だなあ」 「そう……?」 「ああ」 トシクニは肩を震わせ、しばらくは喉の奥で笑い声を立てていたが、やっと笑い止んで言った。 「来るか?」 「えっ?」 涼子のまっすぐな瞳に凝視され、彼は少しあわてた。 「いや、変な意味じゃなくてだな。そのままじゃ風邪ひくだろ?」 あまり大きいとはいえないトシクニの傘は持ち主の身体をカバーしきれず、激しい雨が彼の肩を、背中のリュックを、彼女を庇うように突き出された腕をも濡らしていた。彼が涼子と同程度にびしょ濡れになるのも時間の問題であった。 身体中から雫を滴らせた少女はトシクニから視線を逸らした。彼女は黙ったままこっくりとうなずいた。 トシクニの部屋は白い壁のマンションの三階にあった。彼は背負ったリュックから鍵を取り出すと、かちゃかちゃと鍵穴に差し入れた。手首をひねると同時に錠の外れる音が微かに鳴った。 扉を大きく開き、部屋に彼女を招き入れようとして、トシクニはふと気づいたようにシャツの胸ポケットに手を突っ込み、何やら白い紙片を取り出した。彼は紙片を涼子の手に押しつけた。 彼女はまじまじと手の中のそれを見た。紙片は名刺だった。会社名と共に、中央に“柿沢 稔邦”と印字されている。いぶかしそうな表情の涼子に、トシクニ──稔邦は言い訳がましく説明した。 「いいか? お前を部屋に入れるのは何もやましい気持ちからじゃないぞ。服が乾いたらすぐに追い出すからな」 稔邦の顔と渡された名刺とを交互にながめ、彼女は悪気のない顔で言った。 「小心者なんだね、稔邦さん」 「うるせえ」 彼はびしょぬれの涼子を玄関に押し込んだ。壁のスイッチに手をやると、ぱちっという音と共に室内が暖かいオレンジ色の光に照らされる。 稔邦は玄関先の傘立てに乱暴に傘を放り込み、きゅっきゅっと音を立てて水が沁みた革靴を脱いだ。物珍しそうに周囲を見まわしている涼子にも部屋に上がるよう、彼はあごをしゃくって促した。 「そこの右手が風呂場だ。蛇口をひねればお湯は出るから、とっととシャワーを浴びろ。脱衣所に乾燥機もあるから濡れた服を放り込んでおけよ」 彼女の目の前には8帖ほどのフローリングの部屋が広がっていた。壁一面に頑丈そうな金属フレームで組まれた棚にはコンピュータの筐体が無数に並んでおり、何本ものケーブルに繋がれたランチボックスみたいな物体が緑色のランプをちかっ、ちかっと点滅させていた。 視線を向ける方向を転じると、申し訳程度にほんの小さなダイニングキッチンが備わっている。が、あまり使われている形跡はない。その証拠に、床には雑誌やら何かの専門書やらの書籍が何冊も積み上げられて小山を築いていた。 何にしろ、居心地よく整えられているとは言い難い、端的に言えば殺風景そのものの部屋を見渡し、涼子は大声を上げた。 「うわ、機械と本ばっかり。これ、パソコン?」 「人の話、聞いてんのか?」 稔邦はフローリングの部屋で物入れを開けたり床に放置された紙袋を探ったりしている。と、いきなり何やらビニールの包みを投げつけられて彼女は目を白黒させた。 「シャワーを浴びたらそれに着替えろ。……何をぽけっと突っ立ってるんだ。玄関に水溜りが出来ちまうだろうが」 信じられないようなつっけんどんな物言い。今まで異性からこんな扱いを受けた経験は涼子にはなかった。だが、不思議と苛立ちはない。乱暴な言葉と言葉の狭間に押し隠された温もりが彼女をリラックスさせていた。何だかすごく稔邦さんらしい──涼子は元気よく返事をした。 「はぁい! お邪魔します」 濡れねずみの女子高生はぐじゅぐじゅになった靴を玄関に脱ぎ捨て、爪先立ちで部屋に上がった。軽い足音をたて、部屋の住人が指し示した通り、入って右手のバスルームに彼女は姿を消した。錠が下ろされるかちっという音の後、しばらくすると微かな水音が部屋に漏れ聞こえてきた。 戸棚からマグカップを二つ取り出すと片方に牛乳を、もう片方にインスタントコーヒー、それからポットのお湯を注ぎ入れて稔邦は大きくため息をついた。 「はあ……。俺、何をやってるんだ?」 バスルームの扉の向こうでは乾燥機がごうごうとフル回転している。低い回転音に混じって時折さらさらと聞こえる水音をBGMにコーヒーをすすりつつ、彼は妙に高鳴ってしまう鼓動を押さえようと骨を折った。稔邦は自分に言い聞かせた。とにかく、必要以上に甘い顔をしてはならない。相手は高校生のガキなのだ。気まぐれに優しさなんぞ見せたら最後、とことんつけあがるに違いない。大体、惚れた腫れたと言っても高校生のこと、すぐ忘れるに決まっているのだから。 彼の雑多な思考に終止符を打とうとするかのように、電子レンジがチンと甲高い音を立てた。それとほぼ同時に、ぶかぶかのワイシャツをはおった涼子がバスルームの扉を開けて現れた。狭苦しいダイニングテーブルでコーヒーをすすっている稔邦の姿を見、彼女はちょっと恥ずかしそうにワイシャツの前をかき合わせた。 残りのブラックコーヒーを一気にあおると彼は立ち上がり、電子レンジから出来たてのホットミルクを取り出して予想外の来客に手渡した。無言のままの稔邦の周囲には何か不穏な空気が漂っている。少女は緊張に身を固くした。 「あ……。すいません」 「……」 膝までもある本の山をぎこちなく避け、ダイニングの椅子に腰を下ろす涼子を彼は目の端で観察した。ホットミルクを口にはこんだ後、小さな舌先が唇をちろりと舐めたのがわかった。ピンク色かよ、と稔邦は内心で毒づいた。かりそめにはおった白いワイシャツからは上気した若い肌と下着とが透けて見えている。 「飲み終わったか?」 涼子はうなずいた。彼女がマグカップをダイニングテーブルに置くと、かたん、と硬質な音が彼の耳を打った。 やにわに稔邦は立ち上がった。彼は少女に近づき、その両腕を乱暴に取った。次の瞬間、涼子はあっと言う間にフローリングに押し倒されて大きな身体に組み敷かれていた。ぎいっと椅子が床を滑った。ばさばさと音を立てて本の山がくずれ落ちる。 「よく知りもしない男にホイホイついてくるんじゃねえよ。……警戒心ねーのか? 馬鹿」 彼女にのしかかった格好で稔邦は吐き捨てた。だが、涼子は口をとがらせ、頬を紅潮させて言った。 「稔邦さんは知らない男じゃないもん! 稔邦さんはあたしにひどい事なんかしない。……絶対、いい人に決まってるもん」 だが、勇敢な言葉とは裏腹に、彼女は稔邦の手の中で身を縮め、がくがくと震えていた。ただ、自らの思いを汚すことだけは許さないという気概が涼子を支えていた。 ほとんど会話を交わしたこともない、この娘が自分を好きだと言う。 そして勝手に断言する。自分はいい人に決まっていると。 めちゃくちゃではあったがその一途さゆえに、涼子の言葉は彼の耳に染み透っていった。稔邦は──嬉しかったのかもしれない──ひどく照れ臭くなった。彼は赤くなった顔をそむけ、彼女にぴったりと覆い被さった。小さな手のひらに自分の手を滑り込ませ、そっと握ってみる。 何の損得勘定もなく、ただ無邪気に自分に思いを寄せる少女。信じた人が裏切るはずはないと、見た夢は現実になると、漠然と信じている年代ののびやかな肢体が、つい先日恋人にふられた冴えない男の身体の下で息づいていた。 「ね、どうしていつも、いちごを最後まで残すわけ?」 あんな事があるまでは自分のものだと信じて疑わなかった彼女の声が、稔邦の脳裏に再びこだました。ローズピンクの唇をまろやかに曲げ、おかしくてたまらないのをこらえるようにあの女(ひと)は言ったものだ。 「取っておくことなんかできないの。いつかは食べなきゃ始まらないのよ。……ホント、稔邦って往生際が悪いわね」 「年上ぶって説教するなよ」 閉口したようにそう言うと、彼女はこらえきれなくなったのかくすくすと笑い声を漏らした。思えばあの頃から、彼女は自分の不甲斐なさを見破っていたのかもしれなかった。 「逃げ口上は止めてよ! 私、もう29なのよ」 えぐるような言葉で責められた。散々だった夜。涙をいっぱいためた彼女の瞳。 思い切っていちごを口に放り込めば、彼女と支え合っていけたのに。稔邦の弱さを知ってなお、彼女はそれを望んでいたのに、彼はそうすることができなかった。彼女との幸せのために、自分と折り合いをつけることができなかった。俺は人でなしだ──稔邦はそう考えた。結局、彼女を身の奥底から愛してはいなかった。全てが終わった今、結果がそう証明しているのだから。 濡れた髪が放つ芳香に鼻をくすぐられ、彼は我に返った。薄手の布一枚を隔てたところからは確かな手ごたえが感じられた。やわらかくて、温かくて、少し湿っていて……それだけではない。とくとくとせわしなく血がめぐる、生きた身体だった。 「俺なんかに理想を思い描いたりするなよな……」 稔邦は口の中でそうつぶやくと身体を起こした。涼子は不思議そうに彼の顔を見上げて言った。 「……あの、あたしをヤっちゃわないの?」 なぜ“俺なんか”なんて言うの? ──だが、彼女は賢明にも、後の問いの方は口に出すことなく飲み下した。部屋に据えられた何台ものパソコンが上げる唸り声をバックに、稔邦は気だるそうに苦笑いした。 「ヤっちゃって欲しいか?」 さすがに今時の女子高生だ。言葉だけはスレてやがる。彼は親愛を込めて胸中で悪態をついた。子供が背伸びしやがって。 「生憎だがな。お前みたいなガキを抱くほど飢えちゃいないさ。だが……」 稔邦はふと思いついて立ち上がるとバスルームへと足を運んだ。既にタイマーの切れた乾燥機の丸いガラス窓をのぞきこんでみると、紺やら白やらの布地が中に横たわっているのが見えた。すっかり乾いた衣服をわしづかみにし、涼子に向かってほうり投げながら彼は言を継いだ。 「こう見えても俺は気が変わりやすい。着替えてさっさと出て行け」 ふわりと手に落ちてきた制服と同じに、投げつけられた言葉の語尾には一片の温かさがあった。乱暴に組み敷かれた時はただもう怖いと思ったのに、今になって全身がかあっと熱くなった。 「そんな言い方したってムダだもん。あたし、稔邦さんのこと、きっと、ずっと好きだから」 涼子の声が彼の耳に届いている様子はなかった。稔邦は彼女に背中を向けたままシャツを脱ぎ捨てると、バスルームに姿を消した。 「ありがとうございましたー」 白い紙箱をお客に手渡しながら、涼子はちらりと店のデジタル時計を盗み見た。もうすぐ彼がやって来る時間だ。 ずぶ濡れの彼女がマンションの部屋に転がり込んだあの夜以来、稔邦が『レマン』に姿を見せたことはなかった。もうケーキを買うことはないと断言した彼が二度と現れなかったとしても不思議ではない。が、そのきっかけを作ったのが自分なような気がして、この時間のころになると涼子は決まって気が重くなるのだった。 「なになに? 何、時間を気にしてるの?」 カウンターの内側に並んで立つ同い年の少女にひじでこづかれ、彼女は口ごもった。 「え、別に気にしてないけど……」 「そーなの? 彼氏と約束でもしてんのかと思った」 隠さなくったっていーのに、と少女は言い、さらに涼子をひじでこづいた。規則では禁じられているビーズのブレスレットがしゃらしゃらと安っぽい音を立てた。 「由香ちゃん、何言ってるの。あたしに彼氏なんかいないよ。ってゆうか……」 片思い、と言いかけて浅っぽくきらきら光る相手の瞳を見、彼女は思いとどまった。あれほど鮮烈でありながらあの記憶は、稔邦への思いは、不用意に口に出したらそのまま雲散霧消してしまいそうだった。芝居がかった口調で涼子は言った。 「……愛なんか、あたしは信じてないからさ」 「本当かよ」 「本当だよ……って、え?」 二人の少女はぎょっとしてカウンターの向こうを見やった。 そこには、会社帰りと思われる20代後半くらいの男がたたずんでいた。黒いジャケットの襟を立て、少し肩をそびやかしたその人を見、涼子は呆けたようにつぶやいた。 「稔邦さん……」 「ねえ、注文いい?」 少しいらついた口調で中年の女性が横から声をかけてくる。 「はーいっ!」 由香はあわてて女性の前に飛んでいった。 「お前、どのケーキが好きだ?」 いつも通りの無愛想な口調。だが、ぽかんとする彼女を見つめる稔邦の目は、あの雨の夜、傘をさしかけてくれた時と同じに優しかった。 「え、えと……。レアチーズ」 「じゃ、レアチーズケーキ、2個」 「……はい」 からからとガラスケースを開き、レアチーズケーキをつまむ涼子に彼は言った。 「お前、愛なんか信じてないのか?」 「じ、自分のせいじゃん。稔邦さんがもうケーキ買わないって言うから。会えないのにずっと思ってるなんて、苦しいから。だったら愛なんか、もう信じないもん」 それでもバイトをやめることはできなかった。ここ『レマン』で21時少し前のこの時間を過ごすことは、彼女にとって稔邦と自分とを結ぶひとつの絆だった。ケーキをおさめた白い紙箱に封をしながら涼子は赤い頬を膨らませて言った。 「……胸がちくちくするのは止まんないけど……しょーがないって思って我慢してるんじゃん」 「そりゃ、悪かったな。だが、こうやって俺は来たぞ。お前に会いに。……それとも、もう顔も見たくないか?」 「……」 「……そうか」 彼女は黙りこくったまま、こちらを見もしなかった。ため息と共に稔邦はその背中から視線をそらせた。 「そのケーキ、お前にやるよ。……じゃあな」 ちゃり、と音を立てて代金の小銭をカウンターに置くと彼は踵を返した。店のガラス扉に手をかけ、思い出したようにふと稔邦は振り返った。 「嬉しかったよ、お前が言ったこと。ちょっと舞い上がっちまうほどにな。 俺はお前を見損なってたんだ。お前みたいな女の子があんなことを言うなんて想像もしなかった。……悪かった」 「え……」 「でも、これからはもっと用心しろよ。世の中、俺みたいな小心者ばかりとは限らないからな」 彼は目をすがめ、つい皮肉な微笑を作った。優しい男を気取るのは性に合わない。ガラス扉をぐいと開き、ちりんちりん、とドアベルを鳴らして稔邦は店を出て行った。 後に残された涼子は未だ微かに揺れている金色のドアベルを呆然と見つめた。悪かった、だって? これからはもっと用心しろ? ──自分はどんなに彼が姿を現すのを心待ちにしていたことか。そんなことも、なんにもわかっちゃいないくせに! 「稔邦さんっ!」 彼女はオーダー表とボールペンをサッカー台に放り投げた。カウンターの内側からバネ式の狭苦しい出入り口を通り抜け、ガラス扉を押し開けると涼子は外に向かって駆け出した。 どうも俺は女運がないらしい。 逆巻く春風に吹かれ、歩き慣れたアスファルトの道を歩を進めつつ稔邦は思案した。考えてみると彼女にひっぱたかれたのも、涼子に呼び止められたのもあのケーキ屋の前じゃないか。偶然なのか方角が悪いのかは知らんが……よし、もうここには近づくまい。 「稔邦さんの、バカっ!」 急ぎ足で家路につこうとした彼の後姿に罵声が浴びせられた。聞き覚えのある声だった。驚いて振り向くと何やら固いものが胸に突進してきた。 「稔邦さんのバカ! バカ! バカバカ!」 ぶつかって来たのは涼子の頭だった。衝撃を支えきれずに二、三歩後ろへよろめき、稔邦は苦痛の呻き声をこっそりとかみ殺した。彼の様子に注意を払う余裕もなく、稔邦の胸に顔をうずめて少女は盛大に泣き出した。泣きながら涼子はさらに男を罵倒した。 「偉そうな顔して、わかったようなこと言って! ……あなたなんか大ッキライっ!」 「……おい」 途方にくれた稔邦はそっと彼女に呼びかけた。どうも自分はヘマをやったらしい。彼としては最大限、気を遣ったつもりだったのだが。 しゃくりあげる涼子を胸に抱いたまましばらく考えた末、稔邦は彼にしては賢明な行動を取った。 「おい、こっち向け」 「……やだ」 「そんなに俺が嫌いか」 稔邦は眉根を寄せて彼女をにらみつけると、頬を両手ではさんで無理やりに自分の方に向かせた。 「それはそれで構わねえ。殴りたかったら殴りやがれ」 不意に温かいものが唇に押し当てられた感触に涼子は飛び上がりそうなほど驚いた。彼女が驚愕に息をのんでいるのを察しつつも彼は貪欲に──但し怖がらせない程度に──唇を貪った。 びんたは飛んでこなかった。涼子が何か言おうとしているのを感じて稔邦は彼女の唇を解放した。涙に濡れたやわらかい頬が頬にすり寄せられた。 涼子の吐息のようなつぶやきを耳にし、彼はほっと胸をなでおろした。 「好きだよお……稔邦さん……」 「石川さん、鳩山さん。閉店だから、そろそろレジを閉めてねー」 「は、はーいっ!」 奥の部屋から響いてくるチーフの声に、由香は取り繕うように返事をした。壁のデジタル時計に目をやると時刻は21:00。『レマン』の閉店時間だ。 今日はアタシの番じゃないのに、と軽くため息をつき、レジスターにキーを差込んでボタンを何回かプッシュする。程なく、レジスターのスリットから騒音と共に売上集計のプリントアウトが吐き出されてきた。 「……涼子ちゃんって、案外やるなあ」 店の片側を占める大きなショーウィンドウ。そこには、花やら風船やら洋菓子やらが店の外を行き来する人々の目を引くようにと注意を払ってディスプレイされている。レジに向かっていた身体をひねり、金文字で『レマン』と刻印されたショーウィンドウのガラスの向こう側に由香は視線を注いだ。 路上でサラリーマン風の男と高校生くらいの少女とが互いを抱きしめ、唇を重ね合わせている。道の脇に立つ古びた街頭が申し訳程度の薄黄色い光で二人を照らしていた。 不意に、彼らの衣服を、髪をまきあげるように、一陣の突風が行き過ぎていった。ガラス扉の隙間からその風は『レマン』の店内に吹き込んできた。春風といつの間にすりかわったのだろう。ちょっと湿った若葉の匂いがするそれは、紛れもない初夏の風だった。 照れたように鼻の頭を人差し指で掻いている稔邦が目の前にいた。皮肉も憎まれ口も叩かず、ただ彼は涼子をじっと見つめていた。 やがて『レマン』の看板の明かりがついっと消え、それに続くようにがらがらがら、とシャッターの閉まる音が夜更けの町に響き渡った。いつもと同じ、予定通りの出来事、変わらない風景。……だが、彼女は知っていた。今夜は特別。今日の夜はいつもとは、ちょっぴり違う夜なのだ。 [1]完 next>>
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| 『甘い関係 [1]番目のレシピ』 | |||||||||||||||
−甘い関係− 著者:冨村 千早 脱稿:2002.5.5 改版:2003.8.24 [無許可転載・転用禁止] 本ページに掲載されている内容は日本の著作権法及び国際条約によって保護を受けています。 No reproduction or republication without written permission. Copyright 2002,2003 (C) Chihaya TOMIMURA All Rights Reserved. ![]() この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。 |