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ドクター・ピュアガール
[2]
空になりたい(前編)


[1]/ [2]-前編 -中編 -後編[3]NWしおり


 白いシーツの上に投げ出された剥き出しの腕。
 昔とは比べ物にならないほど痩せて薄くなった手を握り、古沢亮一の妻の亜矢子は眠っていることが多くなった夫のベッド横でパイプ椅子に座り込んでいた。
 夫の病名を主治医に告げられたとき、これは夢だと思った。“胆管癌”── 胆管 *という臓器が身体のどこにあってどんな働きをするのか、それが癌に冒されたというのが一体何を意味するのかも、彼女には見当もつかなかった。ただ、彼の骨ばった手の感触が受け入れがたい現実をかみ締めることを余儀なくした。
 受けて病気が治る手術ではない。それでも、つながれたチューブを抜き去り、痛みと苦しみから逃れることが出来るなら。そう言って古沢氏は手術を受けることを希望した。癌に身体だけでなく、心までも冒されるのは避けたいと彼は考えたようだった。亜矢子の方が夫についていけず、心配のあまり手術が及ぼす身体への負担やら危険性やらを主治医に問いただしたりした。
 点滴液の規則的な滴りを見つめていると時間の流れがやけにのろのろと感じられる。先程、看護師がやって来て点滴を開始してから点滴液はさっぱり減った様子もない。
 だが、彼女の感覚に反し、手術の開始予定時間は刻一刻と迫っていた。
 
「……窓を開けましょうか」
 主治医はただひとことそれだけ言い、臨時の面談室となった処置室のブラインドを上げてからからとサッシを開いた。
 良く晴れた横浜の冬の空は抜けるように青かった。小柄な身体にまとった白衣に乱反射する午後の陽光に、医師は長いまつげに縁取られた大きな目を瞬いた。この空のように曇りなく平静でいることが、今の彼女に求められている資質だった。
 静川純。とある総合病院の消化器科に勤務する外科医である。白衣はおろか手術着を着ていてさえどことなく漂う、少女のような風情からは全く想像もつかないことだが。
 窓外から流れ込んできた新鮮な空気が亜矢子の顔にさっと触れた。幾分生気を取り戻した患者の家族はそのおかげで何とか声を発することが出来た。が、発されたセリフに意味がないのはどうしようもなかった。
「そんな。だって、まさか……」
 道を行く車のエンジン音が遠くに聞こえた。チリンチリンとベルを鳴らして自転車が通りすぎていく。
 やがて彼女は呟いた。
「……主人は、治る見込みがあるんでしょうか、先生?」
 亜矢子の口から質問が発せられるのを待っていた医師はゆっくりと口を開いた。こういう時、相手の目を見ることは難しかった。
「ご主人の悪性腫瘍は胆管から腹膜、更には肝臓までの転移がみとめられています。訴えておられる腹痛は腫瘍が周辺の臓器を圧迫してのことです。ここまで症状が進むと、統計的に見て現代の医学でご主人を治すことは難しいと言えます」
 彼女はぎゅっと唇をかみ、手もとにある花柄のタオルハンカチを握りしめた。率直になり過ぎないように、しかし真実を正確に伝えるために注意を払って選ばれた言葉は、やはりどうしても患者の家族には辛く突き刺さっていた。
「……自分の病気のこと、あの人は気づいているんでしょうか」
 やっとそれだけの言葉を搾り出した。純は首を横に振った。
「まだお知らせしてはいません。ですが、お話しするのなら早いうちが望ましいでしょう」
 医師の言葉は夫に残された時間があと僅かであることを示唆していた。
 亜矢子は下を向き、声を忍ばせて泣き出した。彼女が必死で声を抑えているのに気づき、純は窓際に近づいてラジカセに手を伸ばした。
 しばらくすると、室内にリスナーからのメールを読み上げるDJの声が響いた。何やらヒットチャートの紹介を喋りちらすと、程なくラジカセは人気アイドルバンドの新曲を垂れ流し始めた。
 亜矢子の嗚咽が賑やかな歌声の隙間に聞こえる。徐々に大きくなっていくすすり泣きに静川医師は振り返ることが出来ずに、そのまま窓際に立ち尽くした。


 空になりたい。なれるものなら。
 北海道の原野。甲高い鳴き声を上げて頭上から飛来する幾羽ものオオハクチョウたちを見上げ、星野哲郎は考えた。
 早朝のウトナイ湖の気温はマイナス5度。きりきりした真冬の冷気が頬に痛かった。が、先ほど山の端に現れたばかりの太陽は早くも景気のよい光を地上に投げかけている。昨日に引き続き、今日も良い天気になるだろう。
 冷え切ったキヤノンEOS7を握る手に彼ははあっと息を吐きかけた。さっきリバーサルフィルムを充填し直したばかりの本体には使いこまれたEFレンズが装着されている。400mmの望遠レンズだ。
 次々にやってきては着水しようとするオオハクチョウたちに彼は素早くカメラを向け、フォーカスリングに指の腹を馴染ませた。EOS7は視線入力によるオートフォーカスも可能だが、鳥たちの挙動にはとても追いつかない。結局、マニュアル操作でピントを合わせるしかないのだ。
 パシャッ! パシャッ! ……パシャッ!
 心臓の鼓動にあわせてシャッター音が鳴った。しなやかな翼が力強く空を切るのをファインダー越しに見つめ、彼は胸が高鳴るのを感じた。自然、シャッターを切る間隔も狭まっていく。
 パシャッ……、パシャッ、パシャッ、パシャッ……。
 一際見事なつがいのオオハクチョウが視界に入った。バックの空のブルーを補正しようと偏光フィルターに手をのばして哲郎は思い直し、その手を引っ込めた。鳥たちは素晴らしく美しかった。下手な小細工は彼らの魅力を損なうだけの様に思われた。
 パシャッ、パシャッ、パシャッ、パシャッ……
 異国からの来訪者が揃って滑るように湖水に降り立つのをファインダー内で見届けて、彼はふうっと息をついた。
 北海道の息吹をコダクロームに焼き付けるという一連の作業に興奮と満足感を覚える一方で、青年の心はどうしてだか晴れなかった。目に映る情景が心に響くものであればあるほど気持ちのどこかが疼いた。彼の隣には感動を共有すべき人物がいなかったのだから。
 不意にオオハクチョウが騒ぎ出した。ウトナイ湖バード・サンクチュアリの係員がビニール袋いっぱいに詰めた雑穀を携えて現れたのだった。
「おはようございます」
「おはようございます。いい写真は撮れましたか?」
 軽く頭を下げた哲郎に若い男は白い歯を見せた。彼は頭を掻いて答えた。
「まあ、ぼちぼちです」
 渡り鳥たちは男が蒔いてやる餌にキイキイ喚いて群がっている。こうなるとオオハクチョウも優雅なイメージなどあったものではない。
 哲郎は横浜へと続く空を一望した。彼の心に開いた穴は文字通り、今日の空の色そのままだった。空虚というものが目に見えるならきっと青いに違いない。
 係員の男が握った手を開くと、餌は風にのって辺りに撒き散らされた。ビニール袋の餌が尽きると彼は手にしたノートに何やら書きつけ、哲郎に会釈して立ち去った。オオハクチョウたちは皆、水に浮かんだ雑穀をへらのようなくちばしでこし取り、夢中で飲みこんでいる。欲望を素直に満たしているその姿が無性に羨ましくなった青年は湖の対岸に向かい、自らの思いを叫んだ。
「あーーーっ、キスしてえ!!」
 やにわに、何かが落ちたようなばさりと言う音がした。続いて、じゃりっと地面を踏みにじる音。
「あ、由起子さん……」
 後ろを振り返ってみて彼はしまったと内心で舌打ちした。
 そこには同じ大学の仲間で、哲郎より一学年上の桜井由起子が立ちすくんでいた。由起子は無言のまま、くるりと彼に背を向けると音もなくその場から走り去った。あっという間の出来事だった。まるで強風が彼女の身体を吹き飛ばしたかのように見えた。
 由起子がいなくなった後、霜が降りた地面にはオオハクチョウたちのための雑穀がつまったビニール袋がぐにゃりと形を歪めた格好で残された。おそらくは彼女が係員たちの手伝いをかって出たのだろう。哲郎は嘆息して呟いた。
「そんな変質者を見るみたいな顔しなくったっていいだろうが……」
 吹きすさぶ風が彼の赤くなった鼻のてっぺんまで責め立てる。
 オオハクチョウたちが湖水に首を突っ込み、餌を飲み下しては喚き散らす声が辺りに響いていた。
 
 ウトナイ湖のほとりに設けられたネイチャーセンターの喫茶室は外の世界が嘘のように感じられるほど暖かかった。
 室内に幾つも置かれた木製のテーブルには鮮やかな羽色の野鳥の写真が飾られている。加えて、哲郎の目の前のテーブルには湯気の立つカフェ・オ・レのカップが置かれていた。
「由起子がさっきから様子が変なんだけどさあ。お前、何かやったのか、哲?」
 壁にかけられたカワセミの写真を見つめたまま動かないすらりとした長身の後ろ姿を見、鷹野洋平がぼそぼそと哲郎に耳打ちした。
 哲郎と洋平は高校の頃からの友人である。何かと波長の合う二人は意図したわけではないが同じ大学に進み、未だに事あるごとにつるむ仲だった。が、今、恋人のことを気遣う洋平に彼は少しばかりの疎外感を覚えていた。カフェ・オ・レに口をつけ、哲郎はぼそぼそと言った。
「手を出したりしてないから安心しろよ、おれはデカイ女はタイプじゃないから。ちょっと、独り言を聞かれただけだ」
「なんだよ。独り言って」
 心を見すかされまいと顔をそむけ、床に屈みこむと彼は足元のバックパックから写真店の名前が印字された紙袋を取り出した。ここ何日かの間に撮りためたリバーサルフィルムからめぼしいコマを選んでプリントしておいたのだ。
「注文通り、飛翔の姿に的を絞ってみた。お前のイメージに合ってるか?」
「哲って話題のそらし方がチョー下手くそだよなあ。もうちょっと上手くやれないのかよ」
 黙りこくったままの哲郎に、洋平は「ま、いいけどさ」と呟くと由起子の背中に声をかけて手招きした。
 振り返った彼女の表情は未だに固かったが、由起子はそれでも返事を返すと洋平の隣の椅子に腰かけ、哲郎の手もとにある何枚かのプリントに視線を注いだ。
 元を正せば、洋平が“IT広告大賞”に応募する作品を制作しようと話を持ちかけてきたのがそもそもの始まりだった。コピーライター志望の彼が言うには、学生のうちから実際的な経験を積んでおくことがスムーズな就職のカギなのだそうだ。そうでもしなければ文学部なんぞに籍を置く自分の未来に採用の文字はない───だからお前は写真をやれ、そして企画とコンセプトは俺に任せろ、と洋平は言うのだった。
 広告大賞の類に興味がないわけではなかった。中学の頃から続けてきた写真の腕が試せるならと二つ返事で洋平の依頼を引き受けたのだが、フタを開けて見れば何の事はない。応募の動機の半分は家の監視が厳しい由起子を旅行に連れ出す口実作りで、哲郎にしてみれば日々二人にあてつけられながら体良く利用されているようなものだった。
「……どれも、何となく寂しそうな写真ね」
 トランプのようにテーブルに並べられたプリントをしばらく凝視した後、由起子がぽつりと言った。
 彼女は大学で芸術学科を専攻している。絵や写真に対して由起子が繊細な審美眼を持っていることは哲郎も認めていた。彼女自身がどういう思惑でこの企画(というより思いつき)に参加しているのかは定かでないが。
「そうか? これなんか大人数でワーッと写っててさ。結構迫力あるんじゃねーの?」
「……それ、カクテルに注いだサイダーの泡みたい。空に吸い込まれて、今にも消えそう」
 由起子は洋平の言葉を言下に否定した。きつい物言いにならないのは独特のエキセントリックな表現のせいか。彼女は引き続き写真に目を落とし、言を継いだ。
「空の青さのせいかしら。何だか白鳥がぽっかり浮き出てて、頼りなげな感じ」
「さすがに鋭いな。実はおれも気になってて、今朝から偏光フィルターをはずして撮影してるんだ」
「でも、これなんて」
 女の先輩は一枚の写真を指さした。
「寂しいと言うより、切ないって雰囲気ね。待ってたよって声をかけてあげたいような。……いい写真だわ」
 仲間はずれになった格好の洋平はむすっとしてそのプリントを手に取った。様々な角度からためつすがめつしてみるが、彼女の評を実感するのは難しいようだ。
「あのさ、哲くん」
 由起子はグッチのシガーケースから取り出した煙草に火をつけ、上空に向かって煙を吐いた。喫茶室の高い天井に紫煙が雲のようにたなびいた。
「今朝のこと。あたし、気にしてないから。ただ、間の悪い時に現れて邪魔しちゃったな、って思っただけなの。気を悪くしてたらごめんね」
「気を悪くしてなんか。おれの方こそ……」
 煙草についた口紅の色を見ていると急に彼女が大人に思えた。軽くふかしただけの煙草を由起子はアッシュトレイに押しつけた。
「優しくて、ロマンチックで。哲くんの写真って、あたし好きよ。だから余計気になったの。どうしてこんなに寂しそうなのかって」
「……ありがとう」
 もしかして、探りを入れられているのだろうか。
 今朝のアレは本当にしくじったな、と先に立たない後悔をかみしめる哲郎の正面で、洋平が大きな声を出した。
「なんだ、こりゃ?」
 彼の視線は一枚のプリントの裏面に注がれていた。そこにはマジックペンで数行の文章が書き殴られていた。
「そらに、なりたい……?」
「あっ、それは駄目だ。返せ!」
 慌てて伸ばした哲郎の手を一瞬の差でよけ、洋平は書き付けられた散文の続きを声に出して読んだ。
「こんなに心が穏やかで、静かに澄みきった日は
あなたがいないのが惜しくなる。……」
 散文はそこで終わっていた。彼は親友を促した。
「おい、哲。続きは?」
 哲郎はむうっと黙り込んだ。洋平は肩をすぼめた。
「また、だんまりかよ……。だが、コイツがこれを書いたのは間違いないらしいな」
「洋ちゃん、ちょっと貸して」
 洋平にかけられた由起子の声はちょっと甘めで親しみに溢れていた。彼女もやっぱり女だな、と頭のどこかで哲郎は考えた。
「ふーん。あなた、か」
 由起子はプリントの裏面を見つめてそこに書かれた言葉の一言一句を胸中で反芻した。しばし考え込んだ後、にっこりして彼女は言った。
「あたし、哲くんの写真が変わった訳がわかったような気がする。ね、この文章、預からせてもらっていいかしら」





「コッヘル *
「はい」
「メッツェン *
「はい」
 軽く張りを持たせた粘膜を銀色に輝く器械が滑らかに行過ぎた。切り開かれた臓器が芳しくない光景を露見する。
 静川医師は目をすうっと細め、眼下に広がる癌病巣──自らの闘うべき相手──を睨めつけた。
 今、彼女の注意はクランケの胆管 *をびっしりと覆い、閉塞の元凶となっている悪性の腫瘍に向けられていた。やがて純は胆管から十二指腸、その下に続く空腸 *へと視線をめぐらせた。
「バイパス形成は胆管側から。しかるのちに胆管ドレナージ *と空腸との吻合 *をもって、バイパス形成完了とします。……4Fr *チューブの用意」
「はい」
 彼女の正面に陣取っているレジデント *の小岩井医師にとって、オペの第一助手を勤めるのは初めての経験である。無論、緊張してはいたが、腕が立つと評判の静川医師のオペ展開には強い興味を持っていた。
 純は握っていたコッヘルを彼に手渡すと、手術室ナースからチューブを、引き続いてヘガール *を受け取った。早速、チューブと組織粘膜との異物吻合という細かな作業に取りかかる。
 彼女の指先でドレナージチューブがくるりとバイクリル糸 *に絡みとられ、結紮固定されるのを小岩井医師は見つめていた。クランケの悪性腫瘍は肝臓への転移がみとめられていたはずだった。彼はライトボックスに貼られた術前診断用のエコーを頭に思い浮かべ、想像をめぐらせた。もし胆管ドレナージ周辺に縫合不全が生じたら。悪性腫瘍に浸った胆汁の海をせき止める防波堤に穴があいたら。その時はゾッとしない状況になる。
「小岩井先生、リークテストをやります。コッヘルの止血点を緩めてください」
「はい」
 そんな折、執刀医からお呼びがかかった。もし小岩井医師の想像が当たっていれば、止血点を緩めた途端に胆汁のダムは決壊し、術野は悪性腫瘍で汚染された体液をかぶることになるだろう。
 彼はラチェット *をスライドさせて恐る恐るコッヘルの先端を緩めた。先回りした純の手が止血ガーゼを携えて待ち構えている。
 が、胆汁の氾濫はなかった。にわかに小岩井医師の額に汗が噴き出る。
 レジデントの思いなど感知せず、彼女は手術室ナースに止血ガーゼを返した。淡々としたハスキーボイスがオペ室に響く。
「引き続き、空腸側との吻合に入ります」
「……はい」
 ドレナージチューブのクリッピングを念入りに点検していた純は青年医師が吐息を漏らしているのに気づき、その嘆息を退屈によるものと解して肩をすくめた。
 今日のオペは治癒のためのものではなく、末期の胆道癌であるクランケが希望するQOL *を実現するための、いわゆる姑息的手術 *なのである。クランケの負担となるような大規模なオペは避けるべきであり、新人医師が思い描くような華やかな術技を披露して見せる場はないのだった。もちろん、どんなオペであれ全力投球しなければあっという間に足元をすくわれるだろうことは言うまでもないが。
 純はメッツェンとヘガールとを持ち替えながら、ドレナージチューブと空腸との吻合を黙々とやり終えた。切開、剥離、縫合、結紮。どれも地味だがオペの基本中の基本だ。レジデントが自分の右手だけでなく左手も、縫い目が外翻か内翻かにまで注目してくれることを静川医師は祈った。彼女は再び小岩井医師に声をかけ、リークテストの介助を促した。
 空腸側もまた縫合不全がないことを確かめると純は顔の大部分を覆う大きなマスク越しに息をゆっくりと吐き出した。自分が全うすべきメルクマール *を心の中で繰り返す。
 このバイパスが機能することによって胆管閉塞に阻まれ、胆嚢に貯留していた胆汁を空腸へと排出することが出来る。クランケは残された日々を黄胆 *とチューブに邪魔されることなく、有用に過ごすことができるだろう。それがたとえ僅かな日数だとしても。
「よし、術創を閉めよう。青山さん、マッチュー *。小岩井先生、術野のキープをお願いします」
「はい」
「はい」
 小岩井医師と手術室ナースの青山通子が異口同音に返事を返した。
 通子も手術室ナースとなってまだ日は浅い。が、緊張感を保ちつつも彼女はどこかあっけらかんとした雰囲気を漂わせていた。人形のように整った目をぱちぱちと瞬くと、看護師は小首を傾げて器械のコンテナに手を伸ばした。その仕草はまるで物怖じしない新人アイドル歌手のように見えた。
 マイペースに構えた通子が針をかませるのをしばらく待ってから持針器 *を受け取った純は、青年医師の手に軽く左手を添えて右手片方だけで縫合を行った。彼は執刀医の視界を少しでも良くしようと把持鉗子を握る手に力を込めた。
「これにて終刀します。皆さん、お疲れ様。……どうもありがとうございました」
 その声を合図にクランケはストレッチャーに移され、回復室へと運ばれていく。
 マスクを取り去り、ゴム手袋を外して静川医師はオペ室の外へと一歩足を踏み出した。無性に外の空気が恋しかった。胆管に巣食う癌細胞を見ていながら何も手出しできなかったことが彼女の気を滅入らせていた。
 沢山の優秀なスタッフたちが全力でバックアップしてくれるが、その事実は執刀医に人の生死を背負う責務と、頼ることができるのは自分自身だけであることを再確認させた。オペ室で、純はどこまでも孤独だった。
 こんなことを考えるのは、窓もなく三重のドアに閉ざされて清潔さを保持しているオペ室という名の密閉空間に閉じ込もっていたせいだろう。彼女は思った。3分間だけ抜け出して戸外の空気を吸ってこよう。あの時と同じ色の空を眺めよう。
「静川先生」
 かけられた声に振り向くと、そこには頬を紅潮させた小岩井医師が立っていた。初めての任務を無事終えたことで舞い上がっているのか、彼は早口で喋り出した。
「お疲れ様です。とても有意義な体験でした。勉強になることばかりで。どうもありがとうございました」
 レジデントによる恒例の質問攻め大会が始まることを予感し、気づかれない様に静川医師はそっとため息をついた。戸外へのささやかな逃避行はおあずけにするしかあるまい。
「小岩井先生こそ、疲れただろう。まあ、我々に楽な仕事など回って来た試しはないが」
 長身の青年医師は視線の相当下に位置する化粧っ気のない顔をつくづくと眺めた。一見、小さな女の子みたいなこの人物のどこにあんなリーダーシップが、技術が、冷静沈着さが隠されているのだろう。
「いえ、大丈夫です。……あの、ひとつお聞きしたいのですが。どうしてRTBDドレナージ *を採用なさらなかったのですか? その方が手術時間が短くて済んだのではないでしょうか」
「ああ、それはね」
 ちょっとびっくりして純はレジデントの顔を見た。術中、彼は決して退屈していたわけではないらしい。彼女は廊下に据えられたベンチを指し示し、二人は手術着のままで腰を下ろした。
「このクランケには肝転移がある。経肝的 *にすることで胆汁の漏れが起きたら? 胆管炎を起こしたら? どれもあまり想定したくない状況だな。そういうことだ」
「うーん。言われてみれば、そうですね」
 静川先生もまた自らの腕に絶対の自信を持っているわけではない──思いに沈む青年医師を純は気さくに元気づけた。
「そんなに考えこむなよ。まあ、取りあえずはクランケの体力がもって良かった。胆管を塞いでいるあの病巣を見ただろう?」
「はい。しかし、手も出せずに閉腹しなきゃならないなんて、癪ですね」
 彼女は薄く笑った。
「我々はそんなこと、言ってはいられないさ。今、出来るだけのことをするしかない」
 彼は更にヘガールの扱いについて2、3の質問を彼女に投げた。静川医師はシンプルな言葉を選んでそれに答え、加えて縫合技術についての細かい質問に逐一回答を与えた後、腕の時計を見た。
「そろそろクランケの目が覚める。さて、回復室に行くか」
 小岩井医師はうなずくとベンチから立ちあがった。続いて立ちあがろうとした純は突然、背後から両肩を抑えこまれて小さく悲鳴を上げた。
「きゃっ!」
「ほお? 予想に反した色っぽいリアクション。さては……」
 驚いて振り返ると、そこには柔和な微笑を浮かべた男が佇んでいた。白衣をまとっている所を見ると、医師のようだ。彼は唇を右側に吊り上げた。微笑が皮肉な笑顔に変わった。
「……男が出来たな? 静川」
「あ、雨宮!」
 彼女ははっとして廊下を顧みた。小岩井医師が足を止めてこちらを見ている。
「すまないが先に行っていてくれないか。後から私もすぐに行く」
「わかりました」
 平静時の声を出せたかどうかわからない。が、青年医師はこちらに背中を向け、素直に立ち去っていった。
 ふと思い当たって純は廊下に面した窓を見た。オペ室に入る前は良い天気だったはずなのに、今は冷たい雨が降りしきっていた。
「その言葉遣いはよした方がいい。せっかくのいい女が台無しだ」
 雨宮と呼ばれた人物は腰を屈め、彼女の耳元で囁いた。だが、純は彼の言葉を無視した。
「空の雲行きがおかしいとは思ってたが、なるほど。大雨洪水警報の雨宮透センセイが居たのか。……私に何か用か?」
「そうとんがるなって、静川純センセイ。レジデントの頃から腕を競い合った俺達の仲じゃないか」
 木で鼻をくくったようないらえに気を悪くした様子もなくそう言うと、雨宮医師はひょいとベンチをまたいで気楽に彼女の隣に腰を下ろした。クレゾール臭 *に混じって煙草の匂いが鼻をうった。
「実はY市立大の教授に呼ばれてね、これからオペさ。静川はたった今、上がったところだろう?
しかし、胆管バイパス形成術 *なんてちまちましたオペはジュニアレジデント *にでも任せておけよ。せっかくの凄腕が泣くぞ」
「私はこれが身の丈にあってるんだ」
 凄腕などと、よくもいけしゃあしゃあと言えたものだ。爽やかな口調でずけずけとものを言うこの男の方こそ消化器外科術の名手なのである。
 だが、雨宮がメスを握る日は不思議と雨が降ることが多かった。“大雨洪水警報”、“雨を呼ぶ外科医”などと呼ばれ、それでもそれを気にする様子は微塵も彼にはなかったが。
 雨宮と並んで座っていると、傘に落ちる雨だれの音を聞きながら待ちぼうけを食わされていたあの日の情景が純の脳裏に蘇った。彼にまつわる記憶はその十中八九が彼女の中で水色に塗りたくられていた。
「身の丈か。そう言えばレジデントだった頃、お前、手術台が高すぎて踏み台を用意してもらったことがあったよな。あの時は笑った笑った」
 執刀医の教授がえらくデカかったんだよな、と付け加えて彼はからからと笑った。
「相変わらず、よく喋る男だな」
 純はスニーカーを履いた足のつま先を横に向けて組み、困ったようにそばかすの散った鼻を掻いた。
 雨宮は苦手だ。レジデント時代からの古い友人であるだけではない。彼とは──何と言うか──色々と因縁のある彼女であった。
 不意に、廊下を小走りに駆けてくるぱたぱたという音がこちらに近づいてきた。やがて廊下の曲がり角に一人の女性が姿を現した。
 やや猫背の立ち姿、銀縁眼鏡の奥の小さな目。どことなくクールな雰囲気を漂わすその人物は看護師の境原アサミだった。彼女はベンチに座った彼らをみとめると足早に近づいてきた。
「静川先生、古沢さんの搬送が完了しました。でも、福田先生が、患者さんの覚醒時には主治医に立ち会ってもらわないと困るって。早く来てくれっておっしゃってます」
「ありがとう、境原さん。すぐ行くよ」
 アサミは軽く頭を下げた。続いて雨宮にも軽く礼をし、彼女は表情を崩さないまま来たのとは逆の方向に立ち去った。おそらくは別の用事をすませにいくのだろう、歩調が緩むことはない。忙しい業務をこなさなければならない院内で廊下をゆっくり歩くなどという贅沢が許されるのは、入院患者以外では気ままな非常勤医師の身分である雨宮医師くらいのものだった。
「私はもう行く。この通り、診なきゃならないクランケが目白押しなんでね」
 ベンチから立ちあがり、踵を返しかけた彼女に雨宮は口調をあらためた。
「来週の火曜、別クチでオペの予定が入ってるんだ。久し振りに呑みに行かないか? 昔みたいに。……男のことも聞きたいしな」
「お前に付き合ってひどい目に遭わされるのはもう真っ平だ。誰が行くもんか」
「おやおや。そんなにひどかったか? いい思いもさせてやったと思うがな」
 静川医師は口をへの字に曲げて廊下をすたすた歩き出した。背後から彼の間延びした声が響いた。
「仕事、頑張れよ〜 静川センセ〜」
 
「……お父さん。亮一さん?!」
 回復室で夫の手を握り締めていた亜矢子は彼の目がぴくぴくと動いているのに気づき、声を上げた。
 彼女の向かいに立っていた小岩井医師は、クランケが目覚めようとしているこの時に静川医師が不在であることを気にして所在なげに胸のネームプレートをいじくりまわした。
「あなたの病気は、敵に回すには少々手ごわい相手です」
 ベッドの脇に立ち、淡々と病名を告げた主治医を見つめて茫然自失とした古沢氏がいつもの気概を取り戻すには、ある程度の時間を必要とした。
 ある日、病床をおとずれた純の何てことはない世間話を黙って聞いていたクランケは、不意に自分の学生の頃のことを話し出した。野球部に入っていたことや、生徒会長に立候補して落選したこと、結局選ばれたのは可愛い女の子だったので格好がつかなくて困ったことなど。話は学生時代に留まらず、仕事のことや家族のこと、娘に対する思いにまで及んだ。
「わたしは力がある限り、足掻こうと思います。……先生、どうかよろしくお願いします」
 コップから水が溢れるように心にわだかまる全てを話し尽くした彼は、乱れた呼吸を整えるため、しばらく間を置いてからそう言った。純はうなずいた。
「我々は努力を惜しみません。希望を捨てずに、一緒に頑張りましょう」
「……頑張りましたね、古沢さん」
 張りのあるハスキーボイスが一同の耳を打った。顔を上げるといつの間にやってきたのか、静川医師が明るい笑顔を湛えて目覚めたばかりの患者を見つめていた。
「私の声は聞こえますね? 古沢亮一さん。聞こえたら、返事はしなくてもいいですから、手で合図してください」
「ああ……。聞こえるよ……」
 しゃがれ声で返事を返した彼に主治医はにやっと笑い、親指を立ててみせた。
「手術は成功、大成功。今から痛み止めを打ちますから、少し眠りなさい」
 古沢氏はほっとした表情で目を閉じた。純は看護師からカルテを受け取り、バイタルを確認した。
「フェンタネスト *を25μg静注。夜間、痛みを訴えるようならボルタレン *をあげていいから」
 クランケの枕元に佇む麻酔医の福田医師に目配せしてみせる。彼は首を縦に振った。
「純先生、点滴はどうしますか」
「ああ、ソルラクト *を2本やろう。……それから尿道カテーテルの抜去は明後日にしてくれ。明日はまだ早い」
 慌てて小岩井医師が彼女の言葉に聞き耳を立てている。指示に従って看護師達が動き始めた。
 役目を終えた金属製の包交車 *がストレッチャーと共にかちゃかちゃと音を立てて去り、新たな包交車を引いて別の看護師が現れた。活気に溢れた空気が頻繁に開閉される扉を介して回復室に流れこむ。
「亮一さん!」
「恐れ入ります。部屋の外でお待ちください」
 看護師の一人にそう促されて亜矢子はしぶしぶ手荷物をまとめ、タオルハンカチを握りしめて回復室を後にした。肩越しに振り返った彼女の目に映った夫は口を半開きにして既に眠りに落ちつつあった。
 廊下に出てからも立ち去りがたく、亜矢子は壁にもたれて回復室を出入りする看護師たちを眺めていた。
 この手術をきっかけに病状が回復してくれれば。そして体力がついてくれば、癌も克服できるかもしれない。患者の妻はそんな夢のようなことを考えた。
 彼女の手の中のタオルハンカチには希望と絶望、夢と不安とが深く沁みついていた。

『役に立たない医療用語解説』







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    −ドクター・ピュアガール[2] 空になりたい− 著者:冨村 千早 脱稿:2003.2.8

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    この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。