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ドクター・ピュアガール
[2]
空になりたい(中編)


[1]/ [2]-前編 -中編 -後編[3]NWしおり


 執刀医をつとめた後の体力を削がれたような倦怠感を身体にまとわりつかせ、雨宮医師は病院の廊下を歩を進めていた。
 この感じを追い払うにはしこたま呑むのが一番手っ取り早いのだが、彼には珍しいことに今夜は酒の相手を獲得するのにことごとく失敗していた。
「気が小さい証拠だな」
 レジデント時代、初めて執刀医を任されたオペの後で浴びるように酒を呑んだ雨宮医師をそう評したのは静川純だった。酒でも呑まなければ外科医なんて過酷な商売はやっていられないではないかと彼は思うのだが。
 酒量の多さがいいか悪いかは別として、雨宮透と静川純は共にとんとん拍子にオペを任されるようになった。こつこつと努力して術技を自分のものにしていく生真面目な秀才肌の静川医師に対し、雨宮医師は抜群の空間把握能力と器用さを生来あわせ持つ天才肌だと指導医の間で評判になった。彼にしてみれば、あまりありがたくない誉め言葉ではあった。
 医師控え室で白衣を脱ぎ、ビジターのネームプレートを外して雨宮は時計を見た。あの会話の後で今さら純を誘うのは気が進まなかった。何しろあいつは暗いのだ。オペの後で一緒に呑むには静川医師はくそ真面目すぎた。
 酒が無理ならば、ノクターンをBGMにふわっといい匂いのする女の柔らかい膝を枕にして、彼女に林檎でも食わせてもらうというのはどうだろう。……悪くない。では早速部屋に帰り、ショパンのCDをプレイヤーに突っ込んで寝てしまうことにしよう。夢の中で希望通りの女が希望通りのことをしてくれるはずだ。
 職員専用の通用口から濡れそぼった夜道へと歩き出そうとして、彼は自動扉の脇に佇む人影に気づいた。
 その人物は眼鏡の奥から雨の降りしきる戸外へと視線を投げている。羽織ったコートは厚ぼったくて、姿勢の悪い立ち姿をいっそう際立たせる役目を果たしていた。が、何よりも異彩を放っているのは、かぶったナースキャップのてっぺんからナースシューズの爪先にいたるまで彼女が濡れねずみであることだった。
 雨宮は何も感情の浮かんでいない横顔を注視した。彼女は確か、オペ室前で静川医師と話しこんでいるところにやってきた看護師だ。名は……。静川は彼女を何と呼んでいただろう。
 看護師は足元に置かれたダンボール箱を持ち上げた。重そうにふらつきながら通用口の自動扉の前に立ち、やおら彼女は土砂降りの夜道に傘もささずに足を踏み出そうとした。
「力持ちだな。だがそのままじゃ、いずれ間違いなく転ぶぞ。境原さん」
 思いがけなく名前を呼ばれ、彼女は首をめぐらせてこちらを見た。言うまでもなくそれは看護師の境原アサミだった。
「どなた、でしたっけ?」
 アサミは用心深そうに小さな瞳を光らせた。銀色の眼鏡の縁から雨の雫がぽたぽた落ちた。
「雨男さ。静川に言わせると、今日の雨は俺がメスを握ったことが原因ならしい」
 彼は笑った。端正な口元が笑顔をシニカルに見せることを拒んでいた。
 彼女はふと思い至った。雨宮透。確かとても腕の立つ外科医だと──彼の術技は上手いとかいうレベルではない、芸術的で繊細なオペをする男だ──そういう噂をアサミは聞いたことがあった。Y市立大教授のつてでちょくちょくこの総合病院に顔を出し、オペを引き受けているらしいが、今日がその日だったのに違いない。
 雨宮医師はゆっくりと彼女の前に進み出た。ダンボール箱を受け取ろうとする彼を看護師は制した。
「わたしの仕事ですから。それに、そんなに大変じゃありません。すぐそこの小児科病棟の厨房に運ぶだけなんです」
「ひとりっきりでびしょ濡れになってやる仕事とは思えないがな。どうして仲間と一緒にやらない?」
「みんな忙しくて。……余ってる手は、ないんです」
「ここに一組、余ってるぜ」
 目を伏せたアサミの様子を一通り検分し、彼は素早く結論を出した。雨宮医師は彼女の腕からダンボールを奪い取ると軽々と持ち上げ、理想の王子様よろしく柔らかい微笑を浮かべてみせた。
「そういう訳だから、手伝わせろよ。メスより重いものは持ったことがないが、役には立ちそうだろ?」
 
 音を立てて激しく降りしきる雨の中、アサミがさしかける傘に二人で入り、彼らは病棟と病棟との間を何度も行き来した。
 彼女が言う通り小児科病棟への所要時間はものの数分だったが、その道は申し訳程度の踏み石が敷かれただけの細い悪路で、雨宮自身、何度もけっつまずきそうになった。
 彼は気楽にアサミに話しかけた。雨宮は元来、明朗闊達な男だった。
「……で、注文してみたら、居酒屋の店員が一匹まるごと持って来やがったんだ。だけど、カニって食いづらいだろう」
「そうですね。殻が剥いてあったほうが嬉しいわ」
「そしたら、酔っ払った静川がそのカニをまじまじと見つめてね。突然、俺に手を差し出して言うんだ。メッツェン! って」
 アサミはくすくす笑った。彼は雨音に混じって響く彼女の笑い声が気に入った。ガラスとガラスがふれ合ったような、くっきりと澄んだ声だ。
「それで、雨宮先生はどうなさったんです?」
「取りあえず、バターナイフを渡しておいた。ちゃんと使って食ってたよ。やつの職業病も相当なもんだ」
 ほんのわずか含まれた憐憫の語調に気づき、看護師はちらりと相手の表情を観察した。
「静川先生とは、同期なんですよね」
「腐れ縁さ。古い友達……いや、ライバルかな。あいつと俺とは比較されることが多いから」
 雨宮医師は敷石の割れ目を注意深く避けた。彼にならって石の割れ目の先に右足をのばしながらアサミは呟いた。
「お似合いだと思いますけれど」
「馬鹿言えよ」
 彼は笑った唇の端を右片方だけ吊り上げた。途端、笑顔に影がさした。
「静川と俺は似たもの同士だ。俺達が互いに同じものを渇望し合ったところで、満たされるわけないのさ」
 
 これで何度目になるのか、階段を数歩昇って職員通用口の敷居をまたぎ、彼らは屋根に守られた床の上に立ってほっと息をついた。
 アサミは頑丈そうな大ぶりのジャンプ傘を彼に返し、深々と頭を下げた。
「どうもありがとうございました。おかげで助かりました」
「どういたしまして。こうして他人に頼ってみるってのも、ひとつの方法だと思わないか」
 看護師は少し顔を赤くした。女性の──特にアサミのようなタイプの女性のこういう表情を雨宮は好んだ。足を濡らして手伝った甲斐があったというものだ。
 彼女はコートのポケットに手を入れ、何やら取り出して雨宮医師に差し出した。ほのかに甘い香りを放つ、それは林檎だった。
「厨房でいただいたんです。余りもので失礼なんですが、よかったら食べてください」
「ありがとう。遠慮なくもらっておくよ」
 まじめくさった顔で彼は林檎を受け取り、ピアニストのように綺麗な手でもてあそんだ。ついっと真上に放り投げられた林檎の赤が通用口を照らす非常灯に映えた。
 頭を軽く下げ、アサミは立ち去っていく。その背中に雨宮は声をかけた。
「境原さん」
「はい?」
「俺、来週の火曜日、またオペなんだ」
「……はい」
「だからさ」
 いったん言葉を切って彼は少し考えた。ややあって、雨宮医師は言を継いだ。
「……傘。持ってきた方がいいぜ」
 それ以上は言葉を続けず、林檎をジャケットのポケットにしまって「じゃあな」とだけ言うと、彼は自動扉の外へと踵を返した。ジャンプ傘を開き、既に濡れそぼっている肩を揺らせて夜道へと歩き出す。
 街灯が空から地面へと一直線に落ちる雨だれの光跡を描き出すのを見つめつつ、雨宮は心に決めた。女の膝枕はまたの機会にして、今夜はリアルに手にした戦利品を味わうことにしよう。
 虚構の世界で夢をかなえるなど、所詮、彼の趣味ではなかったのだ。





 静川医師の夜は長い。なかなか布団に潜りこむことが出来ない。眠りについたその途端、急を告げる携帯電話の着信音が鳴り出しそうな気がするからだ。
 あまり物が置かれておらず閑散とした、どこかしら病院めいた印象を与えるダイニングキッチンでティーカップを片手に本を読み耽っていた純は、しかしさすがに襲い来る睡魔に勝てなくなった。壁の時計を見ると、もう夜中の1時だ。
 キッチンとはいっても、ここで料理をすることなどほとんどない。彼女はわずかに残った紅茶を飲み干すと、まるで薬液のようにやたらと林立している酒びんの横にカップをかたんと置いた。
 そう言えば明日であの胆道癌のクランケは術後一週間を無事終えたことになる。カンファレンスの時にでも化学療法部にフォローアップ計画のお伺いを立てなければ。……そんなことをつらつらと考えながら静川医師が冷たい布団に足を差し入れた刹那、電子音が室内に鳴り響いた。
 そら来た。
 ベッドから立ち上がると彼女は勤務先から貸与されているホワイトシルバーの携帯電話を手に取り、通話ボタンをプッシュした。
「……もしもし、静川ですが」
「夜分遅くに申し訳ありません。小岩井です」
「ああ、小岩井先生。どうしましたか」
 電話機の向うからレジデントのくぐもった声がした。彼が今日の夜間当直なのだろう。
「あの、患者さんがひどく腹部の痛みを訴えまして。ボルタレン *錠剤を処方したら一応おさまったんですが……」
「患者さんって、誰だ」
「先程から急激に心拍数が低下しているんです。もう、70を切りそうで……。これは一体何の兆候なんでしょう」
「だから。クランケは誰だ?」
「あ、すいません」
 小岩井医師はぐっと唾を飲みこんで乾いた口を潤した。
「古沢さん。古沢亮一さんです」
 純の頭にぴんと閃くものがあった。彼女は短く言った。
「すぐ行く」
 まだ何か言い足りなさそうな受話器の向うのレジデントに構わず純は電話を切った。ダイニングキッチンの椅子に投げ出されていたステンカラーのロングコートをひったくる。
 玄関先に置かれたチェストの引出しから車のキーを手早く取り出すと、寝巻きのまま素足にスニーカーをつっかけたいでたちで彼女はあっという間に自室を後にした。
 
 白衣のボタンをかけながらICU *に飛び込んできた静川医師の姿を見とめ、その日の深夜勤を勤めていた看護師の橋本美香はほっと胸をなでおろした。
 当直の小岩井医師ときたら、患者につないだ機器類に現れる数値がめまぐるしく変わるのに翻弄されているばかりで、看護師に指示を出す余裕もないのだ。が、容態の急変した末期の癌患者への対応をレジデントに求めるのは酷というものだろう。
「バイタルは *
 純の問いに待ってましたとばかりに美香は患者の生命機能を示すお決まりの文句を唱えた。
「体温37.2度、脈拍66、呼吸数47。血圧は上が83、下が53です」
「レート *の推移は?」
「一時間前は90、30分前から脈拍数が乱れ始めました。10分おきに82、75、66です。……時々、徐脈 *になったりもするんですけれど」
 彼女は手の甲に直にペンで細かく書きこんだ数値を見つめて言った。報告を聞きつつ医師はベッドの上の患者の様子を観察した。ひどく呼吸が荒い。唇が青ざめ、胸はせわしく上下していた。
「処置は? 酸素吸入は行ったのか?」
「はい。100%酸素吸入を5L行いました。ですが、呼吸困難は解消できなくて……」
 美香は言いづらそうに語尾を濁し、小岩井医師に目の端で視線を投げた。彼は心電図の横に屈みこみ、剥き出しになったラッチを何やらいじくっている。純はいらいらした。頭に血が昇るのがわかった。チアノーゼ *の処置指示も出来ないのかと静川医師はレジデントを怒鳴りつけたくなった。
 (取ってもらって構いません。肝臓でも心臓でも、純先生にだったら何でも)
 耳によみがえる言葉に彼女ははっと我に返った。
 クランケでありながら自分に寄せる想いをぶつけてきた勇気ある青年、星野哲郎ののほほんとした顔を静川医師は思い出した。今、ここでベッドに横たわっているのが哲郎だったら、自分はどうするだろう。
 答えが出るのに時間はかからなかった。彼女の口元は次第に落ち着きを取り戻し、終いにはにやっと不敵な笑みが浮かんだ。
「古沢さん、ちょっと胸の音を聞くからね。……私が誰だかわかりますか?」
 そう声をかけると、純は患者の胸をはだけてステート *を当てた。力づけるように左腕を軽く叩く。
「……やあ、先生……」
 荒い息をついていた古沢氏は主治医の畏れを知らない微笑を見た途端、安堵が胸に広がっていくのを感じた。
 ああ、助かった……。彼は心の中で呟いた。きっと静川先生が何もかもいいように取り計らってくれるだろう。彼女のクランケは弱々しいながら少しばかり微笑んだ。
「……とにかくね……。息が……苦し……」
 医師はうなずいた。後ろでは美香が指示を待っている。純は彼女に向き直った。顔の向きに反し、発した言葉は美香の隣に立つ小岩井医師に向けたものだった。
「酸素吸入が効かないのはおそらくは貧血が原因だ。ハーベー *が低下して、酸素を体内に取りこめないんだよ」
 そこまで聞いて看護師は心得た、といった表情になった。レジデントの青年医師はぐっと唇をかんでいる。静川医師は口早に指示を出した。
「輸血を1単位だ。その後、あらためて酸素吸入を。それでも収まらないようならモルヒネ *を使おう。とにかく呼吸を正常に戻すんだ」
「はい!」
 美香は素早く身体を翻した。静川医師はその背中を見送るとICUの扉を押し開けて廊下に出た。後ろについてやってきた小岩井医師に気づき、彼女は声を荒げた。
「こんなところで何をやってる? クランケを一人にするなど、もってのほかだ」
「はい……」
 幾分肩を落としてICUに戻ろうとした彼の耳に純の低い声が響いた。
「チアノーゼは表面的な容態だ。小岩井先生が電話で懸念していた通り、不整脈 *の方が深刻だよ」
「じゃあ、古沢さんは……」
 思わずレジデントは静川医師の顔を見た。彼女は自らの胸元に手をやり、白衣の襟元を握り締めた。白衣はしわくちゃになり、中にまとったままの寝巻きがのぞいた。
「今夜がヤマだ。だが、私はまだあきらめたわけじゃない」
 純はくるりと踵を返した。患者の家族に気の進まない電話をかけるため、彼女はナースステーションを目指して歩き出した。


 輸血と酸素吸入が効を奏して苦しそうな呼吸は止んだものの、その後もクランケのレートは確実に下がり続けた。静川医師は投与する抗不整脈剤 *を増量し続け、ある程度の効果を得たが、古沢氏の生命力そのものを回復させることはできなかった。
「今すぐ、そちらに行きます」
 純との電話でそう明言した亜矢子がICUの扉を開け放ち、部屋へと足を踏み入れたとき、心電図の数値は40を切っていた。
「主人は、まだ生きてるんですか。まだ、息をしてるんですか?!」
 静川医師の腕を乱暴に掴み、患者の妻は凄い剣幕で詰め寄った。うなずく純もまた、憔悴を隠しきれなかった。
「心臓はまだ動いています。本来の機能を果たしているとは言いがたいですが……。でも、どうぞ話しかけてあげてください。返事はなくても必ず通じます」
 ばたーん!
 医師の言葉が終わるか終わらないかのうちに再度、扉が開かれた。そこには20代前半くらいの若い女性が佇んでいた。女性はひっと引きつった声を上げてベッドに駆け寄った。
「お父さん、お父さんっ!」
 涙を零して父の肩を揺さぶる娘の向かい側に陣取り、亜矢子もまた夫の手を握っては何度も呼びかけた。
「ねえ、もう少し。もう少しだけ頑張ってよ。亮一さん」
「お父さん、聞こえる? 麻衣だよ。ちゃんと会いに来たんだから、お願い。目を開けてよ!」
 耳を塞ぎ、ICUを出て行ってしまいたい衝動を純はこらえた。静川医師とクランケとは、生を求めてこれまで共に闘ってきたのだ。戦友を置いて立ち去るわけには行かなかった。
 とはいっても、もう手は尽くした。後は古沢氏の希望に沿ったケアにつとめることだ。……そう考え、ふと心電図のモニターに視線を移して彼女はそのおとぎ話めいた現象に気づいた。
 どんなに抗不整脈剤を投与してもほぼフラットのままだった曲線が、家族の声に答えるようにすうっと首を持ち上げたのだ。やがて曲線は緩やかなサインカーブとなってモニターの上を流れ出した。それはレートが40台に回復したことを示していた。
 
「橋本さん。こういうものなんですか?」
「はい?」
 家族たちの邪魔にならないようにと部屋の隅で目立たないように控えていた美香は小岩井医師の言葉に首を傾げた。
「こういうもの、とは?」
「いえ……」
 一度言いよどんだ後、彼は遠慮がちに言を継いだ。
「こういう時は、その……。心マ *とか、人工呼吸器をつけたりとか。そう言った処置を取るべきなのではないんですか?」
「ああ……」
 看護師は声のトーンを落とした。
「小岩井先生はご存じなかったかもしれないけれど、古沢さんはナチュラルコースってご自分で決めてらっしゃるから」
「……」
 ナチュラルコース。即ち、医療スタッフは無理な延命措置を行わず、自然な形でクランケが最期を迎えられるようつとめる、ということだろう。レジデントは無言のまま考え込んだ。では、我々は何のためにここにいるのだろう。静川先生は何を思ってあそこでああやって心電図のモニターを見つめているのだろう。
「もしかして、先生はステルベン *未体験ですか?」
 美香は手馴れた様子だった。彼はちょっと膨れてみせた。
「嫌ですね、はっきり言わないでくださいよ。どうせ僕はまだまだヒヨッコです」
「しっ」
 看護師は手を挙げて小岩井医師を制した。純がクランケの上に屈みこんだのだ。二人は顔を見合わせると足早にベッドへと歩み寄っていった。
 一時は鎌首を持ち上げた心電図のサインもじりっ、じりっと落ち込み、とうとう一本の直線となって微動だにしなくなった。
 亜矢子との相談のもと、何とか持ちこたえて欲しいと願いを込めて昇圧剤 *を投与する他、純にできることはもうなかった。
 心電図の数値を読んで認識してはいたが、静川医師は白衣のポケットからペンライトを取り出し、古沢氏の瞳孔を照らした。生死を確かめるためではなく、遺族たちに彼の死を実感させるために必要な所作だった。
「12月24日、午前4時32分。……ご臨終です」
 純は呟くようにそう宣言した。後に残された二人の女性はわっと泣き出し、その後方で医療スタッフたちは沈黙した。
 悲しみに包まれた室内で遠慮がちながら活動を再開したのは、やはり看護師の橋本美香だった。彼女は厳粛な面持ちで遺族に礼をすると、古沢氏の身体に差しこまれていた高カロリー輸液のカテーテルを丁寧に抜き取った。
「橋本さん、僕もお手伝いします。何か出来ることはありませんか」
 小岩井医師がささやくように言った。ベッド脇にしゃがみ込んでいた美香は彼の顔を見上げた。経験の差は歴然としていたものの、医師の立場である彼が看護師の自分に指示を仰いでくれたことが彼女は嬉しかった。
「そうですか? じゃあ、お身体をお清めしますから、コットンとエタノールを。場所はおわかりになりますよね?」
 レジデントはうなずくと小さく黙礼して部屋を出て行った。
 ぱちりと音を立てて心電計の電源を切り、古沢氏の胸部から電極をはがしにかかった純に看護師は小声で言った。
「ここはあたしたちでやれますから、今のうちにお休みになってください。純先生は昨日からぶっ続けで勤務でしょう?」
「私も手伝うよ。当たり前だろう?」
 事も無げに彼女は言った。オペの腕は明敏極まりないのにこういう時の先生はからっきしダメだな、と美香は考えた。静川医師には山のような残務処理が待っているのだ。大変なのはこれからだというのに、今、休んでおかないでどうするというのだろう。
 はがした電極から伸びているコードがベッドの柵に引っかかった。からまったコードをほどこうとすると、柵とベッドマットの間に何かが挟まっているのが純の目にとまった。そっと引きぬいてみる。
 それは葉書だった。ちょうどクランケの顔の左横、手がぎりぎり届いたであろう個所に何枚もが束になって挟まっていた。おそらくは古沢氏が、体調の良い時を見計らって書こうとこの場所に差しこんでおいたのだろう。
 だが、どの葉書も真っ白なままで宛名も書かれていなかった。彼女は震える指先で葉書の枚数を数えた。ちょうど30枚あった。
 真新しい葉書の束を見つめて純は考えた。彼は三十人の誰かにそれぞれ何を伝えようとしたのだろう。だが、時候の挨拶どころか一文字も書かれていないその葉書は、残された者に書かれるべき内容を推測することさえ許さなかった。
 彼女のクランケは伝えたいことも伝えないまま逝ってしまったのだ。静川医師はベッドサイドに置かれた狭苦しいミニテーブルに葉書の束をきちんとそろえて置いた。どっと疲れが押し寄せてきた。
「橋本さん、やっぱり休ませてもらうよ。控え室にいるから何かあったら呼んでくれ」
「はい」
 不自然なほど低い声に美香が答えた。彼女は古沢氏に、次いで涙に声を詰まらせている二人の遺族に黙礼をすると、ICUを後にした。
 未だ夜の明ける気配もない暗い廊下に出た純は自らの足元を見て自嘲した。彼女のいでたちは自室を飛び出した時の寝巻きとスニーカーのままだった。
 ……たしかロッカーに私服を置いてあったはずだ。
 急ぐ必要はもうなかった。静川医師は医師控え室に向かってのろのろと歩き出した。


 クランケが死亡に至った過程と原疾患のムンテラ *。死亡診断書の発行、その他の諸手続きと儀式。
 そういった気の滅入る、しかし平静さを取り戻す時間を与えてくれるいくつかの仕事に一段落つけたとき、時刻は既に昼をまわっていた。
 静川医師は疲れきった足を無意識にあの場所へと向けていた。人目がないのを確かめ、非常口から戸外に足を踏み出すと、正に冷気と呼ぶにふさわしい身を切るような寒さが、あっという間に白衣を羽織っただけの小柄な身体にまとわりついた。
 そこは病院の駐車場だった。この季節、間仕切り代わりに植えられたキンモクセイの低木は申し訳程度に色の悪い葉をつけ、寒そうに縮こまって何とか地面に突っ立っていた。
「……雪じゃないか」
 純は独りごちた。病院内で立ち働いている時は全く気がつかなかったが、外では雪がちらちらと舞っていた。砂粒みたいな氷の結晶は積もる気配はなく、駐車場のアスファルトの上に音も立てずに落ちては消えた。
 クランケの終末が迫っているのはわかっていたことだった。そして自分は持てる力の全てを注いだ。だが、何度経験しても患者の最期を看取るという作業に彼女は慣れることが出来なかった。
 敗北感を胸に抱いたまま白いものがこぼれおちてくる鈍色の空を見上げ、そう言えば今日はクリスマス・イヴではなかったかと静川医師はぼんやり考えた。
 こういう時に限って雨宮は姿を見せなかった。どこまでが冗談でどこからが本気なのかわからないあの皮肉なおしゃべりにも、今だったら耳を傾けるのに。──ここまで考えて彼女はゆっくりとかぶりを振った。あの男を求めるのは間違っている。彼は純の周りを惑星のようにぐるぐる巡るだけで、決して彼女の元に降り立ちはしないのだから。
 誰もいないのなら逆に好都合だ。そう割り切ろうとした矢先、背後でキンモクセイのこずえががさりと大きな音を立てた。
「星野くん……!」
 純は驚きのあまり息をのんだ。キンモクセイの陰から現れたのは静川医師のクランケであり、生涯彼女を守らせてほしいと名乗りを上げたあの青年、星野哲郎その人だった。
 彼もまたいきなりの再会に驚いていたが、純の呟きを聞きつけて嬉しそうに笑った。
「ただいま、純先生。まさかここで会えるとは思わなかった。真っ直ぐ家に帰らないで得しちゃったな」
 撮影旅行からの帰路なのだろう。哲郎はロープロのバックパックを背負い、一眼レフのカメラを胸にぶら下げていた。あまり血色がよくないせいか、記憶にあるよりも彼の顔は大人びて見えた。以前に会った時より少しやせたようだ。
 彼女は哲郎の胸ぐらをつかんだ。水滴をはじくオリーブグリーンのナイロンコートに短く切りそろえた爪が食いこんだ。
「どうして……」
 辛い時、苦しい時に彼は決まって現れる。純は自問した。どうして哲郎なのだろう。そして自分はどうして、彼の顔を見たくらいで言葉に詰まったりするのだろう。どうして、こんなにほっとするのだろう。いつから自分はこんなに弱くなったのだろう。
 どうして、古沢氏を助けることが出来なかったのだろう。
 彼女の瞳から透明な雫がひとつ、ふたつと転がり出た。涙の粒は雪と一緒にコートの上に降りかかった。
「わっ、どうしたの、先生?!」
 静川医師は哲郎の胸に顔をうずめ、肩を震わせて泣き出した。彼女の腕に手を置いてその冷たさにぎょっとした青年はあわててコートの前ボタンを外し、純の小さな身体をすっぽりと包みこんだ。
「ごめん……。ごめん、星野くん……」
 嗚咽に切れ切れに混じる彼女の言葉に答えないまま、彼は純を抱き締めた。ことさらに涙の理由をたずねるつもりはなかった。彼女の身体は北海道の湖水のように冷え切っていた。青年が受け取ったきいんとした冷気の分だけ、人肌の熱さが純を温めていく。
「髪、のびたね」
 腕の中でしゃくり上げている彼女の耳元に哲郎はささやいた。肩の上でぷっつり切りそろえられているのが常だった純の髪は今や肩に達し、うなじをすっかり覆っていた。
「……冬は短いと寒いんだ……」
 いかにも純らしいいらえに愛おしさがこみ上げた。彼女を抱く腕に力を込め、青年はカタカタ震えている唇を唇でふさいだ。
「ん。……ん、んんっ!」
 苦しそうな声がもれ聞こえてきたがそんなことには頓着しない。純の唇が温もりを取り戻し、やがては熱を帯びるまで哲郎は彼女の唇を吸った。
 やっと青年が唇を離し、その拘束から開放されると静川医師はこほこほと咳き込んで哲郎を軽くにらんだ。彼は声を立てて笑いながら彼女をあらためて抱き寄せた。髪がのびて肩に届いてしまうほどの間、純と会わずにいられたことが不思議に思えた。
 哲郎は彼女の荒い呼吸と収まらない身体の震えを、純は沁みこんでくる彼の体温を。二人はそれぞれがそれぞれに互いの存在を感じ取っていた。
 
 目も鼻も、それから頬もすっかり赤くした静川医師が恐縮して洗濯して返すというのを説き伏せ、無理やり差し出させたハンカチを哲郎が受け取った時、砂粒状だった雪は湿気を含んだベタ雪に変わっていた。駐車場に停めた彼の軽自動車に避難しようという申し出に、純はかぶりを振った。
「もう戻るよ。仕事が残ってるんだ。きっと、橋本さんが私を探してる」
「そうか……」 
 素っ気無い物言いが照れ隠しであることはわかっていた。でなければ、静川純の彼氏などやっていられるものではない。
 哲郎はふと、この病院の入院患者だったころ自分の世話を担当してくれた橋本美香の元気な声を思い出した。彼女なら今にもこの場所を嗅ぎ当て、物陰から自分達の様子をうかがっていそうだ。その光景を想像すると自然に笑いがこみ上げた。
「……ん?」
「ううん、何でもない。……ほら、早く行かないとヤバイんでしょう?」
 笑いを苦労してかみ殺し、彼は不審そうにこちらを見ている純を促した。変なヤツだな、と口の中で呟くと彼女は白衣を翻して病棟に向かい、足早に歩き出した。
 哲郎は胸のEOS7に手を伸ばした。F値1.2の85mmレンズで絞り優先。やや光線が暗いのが気になるが、本体にセットされているのは折り良くISO400のネガフィルムだ。
「……純先生!」
 くるりと振り返った純の頬に髪の一筋が落ちかかる。
 桜色の唇も華奢な肩も、揺れる白衣の裾までも余さずフレーミングし、彼は素早くシャッターを切った。舞い散る雪の中、スレートグレイの病棟をバックに浮かび上がる姿はストップモーションのように青年の心に焼きついた。
「さっきのあなたは凄く可愛かった。おれ、嬉しかったよ」
「……馬鹿」
 ちょっと呆れたような口ぶりで彼のドクター・ピュアガールはそう言い捨てた。紅潮した頬を隠すようにこちらに背中を向けると、彼女は今度こそ本当に病棟の中へと立ち去って行った。

『役に立たない医療用語解説』







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    −ドクター・ピュアガール[2] 空になりたい− 著者:冨村 千早 脱稿:2003.2.9

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    この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。