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ドクター・ピュアガール
[2]
空になりたい(後編)


[1]/ [2]-前編 -中編 -後編[3]NWしおり


 湿気を含んだベタ雪は程なくみぞれになり、日が落ちる頃、ついには雨に変わった。
 窓ガラスに描かれた無数の水玉模様が窓際の灯りを跳ねて輝いているのを横目に、境原アサミは足をもじもじさせてカウンターチェアに座りなおした。
 店内は間接照明によってほのかに明るく照らされ、静かな音楽が流れている。彼女の隣に座った人物は軽く目を閉じ、曲に合わせて低い声でハミングしていた。
「あの」
「ああ? 何だい?」
 彼女の呼びかけに答えてまぶたを開いたのは“雨を呼ぶ外科医”、雨宮透だった。長身の身体に仕立ての良い柔らかそうなウールジャケットを着込み、煙草の煙を吐き出しては吸殻を灰皿に押しつけるその姿はまるで少女マンガに出てくる憧れの先輩か何かのように見えた。
「雨宮先生、ちょっと飲み過ぎなんじゃないでしょうか?」
「この歌、知ってるかい?」
 アサミの言葉など聞こえなかったかのように彼は言った。彼女は困ったようにカウンターの上を見やった。そこには雨宮が空けた冷酒のびんが乱立していた。
「女が旅人に言うんだ。私という海を思い出せるようにこの貝殻をあげる。幸せは旅の果てではなくて身近にある、ってね」
「はあ」
「ありきたりのラヴ・ソングだけれどな」
 彼は歌詞の一節を口ずさんだ。アサミは眼鏡の奥のクールな瞳を瞬くと無遠慮に言った。
「口説く手間は同じなんですから、どうせならもっと若くて綺麗な人を口説いたらどうでしょうか? 青山さんとか」
「君だって若くて綺麗だろ? 加えて思索的だ。嬉しいね」
 イエローの濃淡に色づけされたガラス製のお猪口に冷酒を注ぐ手を看護師は黙ったままじっと見つめた。日に焼けた手の甲からピアニストのように細くて綺麗な長い指が伸びている。理想的な外科医の手だった。彼女はぽつりと言った。
「オペのあった日は深酒する」
 雨宮医師はぎくりとしてアサミを見た。見透かすような視線が彼に注がれていた。
「昔からの癖なんだそうですね。でも、少しは控えてください。先生の身体は、不本意かもしれませんが先生一人のものじゃないんですから。先生の身に何かあったら患者さんたちが困ってしまいます」
「耳が痛いな。今回は俺の負けらしい」
 優等生然とした彼女の物言いに彼は苦笑いして酒をあおった。背後をちらりと顧みた雨宮は看護師に目配せし、小声で言った。
「あっちのドクターにも同じセリフを聞かせてやってくれよ、境原さん。センセイの身体はセンセイ一人のものじゃあないってさ」
「いいムードの所を邪魔して悪いんだけどさあ、お二人さん!」
 アサミと同様、消化器科で看護師をつとめている田原さくらの悲鳴に近い声が店内に響き渡った。彼女は雨宮医師に赤い頬を膨らませた仏頂面を向けた。据わった目からすると相当酔っているようだ。
「雨宮先生、この人をどうにかしてくださいよ。徹夜明けのくせして呑んだくれて、止めたって聞かないし、小憎たらしい口答えはするし。……挙句にあっさりつぶれてこのザマなんだもの。あたしじゃ、手に負えないわよ!」
 カウンター後ろの席にはさくらの他、手術室ナースの青山通子が幾分うんざりした表情で座り込んでいる。
 そしてもう一人、冷酒のグラスを右手に握ったままの格好で静川医師がテーブルに突っ伏していた。
 
「おい。静川、乗れ。……乗れったら」
「……んー」
 看護師たちと別れ、雨宮医師は純を無理やりタクシーに押しこんだ。
 夜闇は未だ降り続く雨でしっとりと潤っている。静川医師に引き続いてタクシーに乗りこんだ彼は運転手に行き先を告げ、水滴が絶え間なくあたる車窓を眺めた。外の景色は雪が降った形跡などどこにも留めていなかった。
 カーシートの背もたれに身体を預けてのびている旧友に視線を移し、雨宮はにやにやした。彼女の肩をちょいと揺すってみる。
「静川、お芝居はもういい。バレてるんだよ。……お前がちょっとやそっとの酒で沈んだりするもんか」
 純はまぶたを開いた。右隣で腕組みをした雨宮がこちらを見ていた。彼は興味深そうに瞳をくるめかせた。
「当然、何があったか説明するんだろうな? でないと送り狼になってやるからな」
「……出来るものならやってみろ」
「ほほう?」
 雨宮は彼女の手を取り、呆けた顔に覆い被さろうとした。純は慌てて彼の身体を押しのけた。
「馬鹿。冗談はやめろ」
「冗談さ、もちろん。で、何があった?」
 彼女は叱られた子供のように上目遣いで雨宮医師の顔を見た。何でも言い当ててしまう彼は純にとって都合悪いことこの上ない存在だった。
「……クランケが今日の朝早く、ステったんだ *
「それは気の毒したな。で?」
「……」
 純はそれきり口を閉ざした。
「やれやれ」
 彼女は弱音は吐かない。全く相変わらずな奴だと雨宮はため息をついた。酔っ払っただらしのない医者を演じる水面下で、大方こいつは自分自身の非を責めさいなんででもいるのだろう。
「誰かが傍にいてやらなきゃ、立ってもいられないやつが何やってんだか。その突っ張る癖を何とかしろって言ったよな」
 車の走行音と跳ね散る雨の飛沫に溶ける言葉が過去の記憶を喚起する。純は脳裏を侵食するそれらに負けまいと奥歯をかんだ。ただでさえハスキーな声が唸り声のようになって喉からもれた。
「私をフッた晩にお前が言ったセリフだったな」
「いや、あれはフッたんじゃない。敵前逃亡したのさ。情けないことにね」
 タクシーは赤信号を前に急停止した。衝撃に揺さぶられた身体を元の位置に戻し、膝の上で組んだ左右の指を雨宮医師は開いたり閉じたりした。
「お前には包み込んでくれる人が絶対に必要なんだ。俺はそうはなれなかった。だから逃げた。……悪かったと思ってるよ」
 雨宮の思いもよらない言葉に純は目を丸くした。彼女は苦しい胸の内──10歳以上も年下の青年に抱き締められたこと、彼の好意を享受するのがためらわれることなど──をつい旧友に打ち明けそうになった。実際、静川医師は今日という日のめまぐるしさにすっかり参っていた。
 が、結局はプライドに負け、純はどうでもいいことを言った。
「敵前逃亡って、私は敵か?」
「そうだな。そういうことになるかな」
 彼は笑った。ちょっと皮肉めいた笑顔は雨宮にいつもの調子が戻ったらしいことを示していた。
「俺は多分、お前の傍に誰かがいるのを見て安心したいんだ。その誰かには覚悟を決めてもらって、な」
 
 昼間、病院で出会った純はおかしかった。
 秋に受けた胆嚢摘出術の術後検診にかこつけ、彼女に会えるかもしれないという密かな期待を胸に病院を訪れた哲郎だったが、偶然再会を果たした純の様子はどうにも気にかかるものだった。案の定というべきか、待合室に貼られたその日の外来担当医リストに静川医師の名前はなかった。
 一度は家に帰ったが、彼女の身体の冷たさが記憶の底にこびりついて離れず、哲郎は再び軽自動車にキーを差し込んでいた。
 純の住むマンション正面の路上に走りこんできた夜目にも目立つ派手な黄色い車体に、軽自動車の運転席から哲郎は目を凝らした。てっぺんの表示灯から車はタクシーであることが知れた。遅い時間を気にし、もう退散しようかと思案していた青年はしめた、と指を鳴らした。純が帰ってきたのに違いない。
 果たして、ハザードランプを点灯して停車したタクシーから彼女らしき小柄な影が降り立った。が、引き続いて現れた長身の男の姿に彼ははっとなった。
 男が純らしき人影の腕に手をかけたのを哲郎は見た。彼は素早く軽自動車を降り、タクシーに近づいていった。躊躇はなかった。
 
「肩、貸すか? 静川」
「平気だ。一人で歩ける」
 純は素っ気無くそう言ってこちらに背を向け、タクシーを降りた。
 彼女を追って地面に足を下ろした雨宮は傘を開こうとしてその必要がないことに気づいた。夜空を見上げてみると、黒い雲の切れ間から星が見えた。薄く射しているのは月明かりだろう。
 純の足元がふらついているのに気づき、彼は彼女の身体を支えた。口は達者でも存外、酔いは回っていたらしい。雨宮は彼女の肌の匂いを胸一杯に吸い込んだ。懐かしい、ほろ苦い匂いだ。
「こんな酔っ払いを道端に放置できないな。仕方ない。部屋まで送ってやるか」
「それには及びません」
 唐突に、聞きなれない声が耳に響いた。驚いて顔を上げると、ほのかな月光を跳ね返す濡れた路上に若い男が突っ立ってこちらを見ていた。
 オリーブグリーンのロングコートを羽織り、白いマフラーを無造作に首に巻きつけている。薄暗い闇の中で、その顔は若さというより幼さをうかがわせた。瞳だけがにらみ付けるように鋭かった。
 青年の射るような視線にどうしてだか雨宮の心は高揚した。挑みかかられるのは願ってもないことだった。
「……やあ、星野くん。こんばんは」
 雨宮医師が誰何するより先に、状況がわかっているのかいないのか彼の腕に支えられた純が呑気な声を出した。星野くんと呼ばれた青年は頭を下げてみせると雨宮に歩み寄り、彼女を引き取ろうと腕を伸ばした。彼はそれを拒否した。
「どうして君に静川を渡さなけりゃならないのか、わからんな」
  “星野くん”はかあっと頬を染めた。そのおかげで青年が本来持つ、潔癖で優しい面差しが際立った。
 だが、先ほどのにらむような視線は雨宮に強烈な第一印象を残していた。彼は思案した。次の男もやっぱり意地っ張りか。類は友を呼ぶとはこのことだ。
 何を思ったか雨宮は旧友の両頬に手を当てて引き寄せた。引きずられて爪先立ちになった純は彼の唇が近づいてくるのに気づいて思わず目をむいた。
「……!」
 青年はとっさに雨宮医師の肩をつかみ、その右頬に一撃を浴びせようと拳を繰り出した。それをするりと避け、雨宮は詰問するように言った。
「君は静川の何だ。何の権利があって俺を殴ろうっていうんだ?」
 哲郎はぐっと返答に詰まった。この不愉快なやつが大人の男で、しかも何らかの分野のスペシャリストであることは容易に見て取れた。二人が寄り添う光景は明らかに“さま”になっていた。
 対する自分は彼女を自分のものだと明言することもできなかった。青年の振り上げた拳は空中に一時停止した。
 ぱあん!
 次の瞬間、小気味よく甲高い音が辺りに響き、男の腕からジャンプ傘がばさっと取り落とされて水溜りに浸かった。純の平手が雨宮の頬を打ったのだ。厳しい語調の言葉が彼女の口をついて出た。
「雨宮、人をからかって面白いのか」
「……痛ててて」
 打たれた頬を彼はやや大袈裟にさすった。彼らの頭上には未だ黒雲が漂っていた。雨降って地固まる、だ。彼は自分にそう言い聞かせた。
 純は頬を上気させ、口をへの字に曲げてこちらを見ている。こういう時に泣いたりしないのが彼女の彼女たる所以だった。そこまで考えたところで、雨宮は純が平手を拳に握り直したのに気づいた。ゆっくりと後ずさる。
「そんなににらむな、静川。俺には俺の事情ってもんが……」
 静川医師の憤りに合わせるように不意に彼らの背後でクラクションが2度、3度と鳴り響いた。少し待つよう言い含めてあったタクシーの運転手がそろそろ痺れを切らしたようだ。潮時を悟り、彼は右手をぶらぶらさせて見せた。
「……ああ、はいはい。消えてやるよ。じゃ、近いうちにまたな。そっちの星野くんも」
「当分、顔は見たくないぞ」
 純は不機嫌そうに言った。
 落とした傘を拾った彼はついっと哲郎の身体をかすめ、悠々と歩み去った。傘から滴る水滴がタクシーのハザードランプに照らされてきらっ、きらっと輝いた。
 
 Uターンしたタクシーが闇に溶け込み、緩やかに消えていくのを純は腹立たしい気持ちで見送った。
 雨宮が二人の関係に探りを入れたのだということはわかっていた。そして哲郎の行動は純に対する彼の心情を如実に物語っていた。
 自惚れ屋の雨宮透とおっちょこちょいの星野哲郎、二人の男のどちらにも彼女は腹が立った。純はマンションに向かって歩き出した。酔いはすっかり覚めていた。
「純先生!」
 頭痛の種の一人は去った。残るもう一人に呼びかけられて彼女は立ち止まった。哲郎はしばらくのあいだ黙りこくっていたが、やがて口を開いた。
「……あいつ、誰ですか?」
「ねえ、星野くん。私はいつまで、“純先生”をやってればいいんだ?」
 問いに答えないまま、純は大きな瞳を彼に向けた。
 青年は彼女に呼び捨てにされた男のことを重ねて問い詰めたい気持ちをこらえた。純の瞳を見つめ返し、彼は我知らず身震いした。いつか見たのと同じ、月の光を跳ね返す灰色く煙った瞳だ。
「ここに立っている私は医師じゃない。君の前で医師には、もうなれそうにないんだ」
「え……」
「本当に私と結婚するつもり?」
 風が空に残る雨雲を払い、束の間、全容を現した月が二人の姿を鮮明に照らし出した。月光に鼻の頭を撫でられ、純はわざとらしくくしゃん、とくしゃみをした。答えない哲郎から彼女はふいっと目を逸らした。
「そうだな。やっぱりそんなこと、あるはず……」
「だって! 純先生が何も答えてくれないから!」
 あわてて彼女の言葉をさえぎった。彼は必死で声をふり絞った。
「おれは確かにあなたを腕に抱いてキスした。だけど、そこまでだ。
おれの手があなたの心まで届いたのか、自信がない。
あなたが本当におれのものなのかどうか、このままじゃ確信が持てないんだ」
 澱のように溜まっていた不安が噴き出ようとしていた。こんなことを言ったら純を失ってしまうのではという危惧はもはや意識の外だった。彼は繰り返した。
「自信がないんだ……」
「じゃ、抱いてみるかい? 私を」
 しんと静かな夜の空気に純の声が響いた。哲郎はやっとの思いで一言を喉からしぼり出した。
「せ、先生……。酔ってるでしょう」
「酔えるものなら酔いたいよ」
 彼女はため息をついた。
「星野くんが言った通り、本当のところの私は“泣いてる女の子”だったよ。それをおだてて、迷わせて、嬉しがらせて。
結果、私は君に恋するただの女としてここに立ってる。そうしたのは星野くんだ。
それを今更……。勝手なことを言わないでくれ」
 図らずも、彼は純が胸にしまっていた思いをこんな形で知ることとなった。混乱した青年は口をぱくぱくさせた。喜んでいいのか、泣けばいいのか、それとも自らの軽率さを悔やめばいいのか。哲郎にはわからなかった。
「君が、私から医師の仮面を奪ったんだ」
「ちょっと待った。……純先生!」
 彼は純に手を伸ばした。その手から逃れるようにさっと身を翻し、哲郎から顔をそむけて彼女はその場を走り去った。



 その手紙はダイレクトメールや学会の会報に混じって静川医師のところに舞い込んできた。
 お決まりの癖で眠れない夜の時間を過ごしていた彼女はふと思いついて、ダイニングテーブルの上に溜まって小山を築いていた郵便物を手に取った。
 不要な手紙をいくつか裂いた後、純が何通目かに手にした封筒は厚紙を封入して補強してあり、裏を返すと下手くそな字で“星野哲郎”と署名がしてあった。
 彼女は丁寧に封を切った。中から出てきたのは展覧会のチラシだった。IT広告大賞と大書きされたタイトルの下には、応募作品の数々なのだろう、モザイクのように小さな写真や絵がいくつもちりばめられている。最下段に記された会期の日付のいくつかには手書きで丸印がつけてあった。
「お忙しいとは思いますが、是非、見に来てください。印がついている日は一日中会場にいますから」
 チラシの余白には、やっぱり下手くそな字でそう記されていた。
 封筒を逆さにして振ってみると、張りのある紙片がするっと手の平に滑り落ちてきた。それは飛翔するオオハクチョウの写真だった。
 つがいのオオハクチョウが厳冬の空の下で首をぴんと伸ばし、大きな翼をはためかせている。刺すような寒風に身をさらしているはずのハクチョウたちはどこか軽やかで楽しげで、生きる喜びにあふれていた。写真全体を包んでいる空のブルーが清廉な空気を醸していた。
 ツヤありで仕上げられた2Lサイズのプリントに純はじっと見入った。哲郎らしい写真だ。そう思った。
 写真の裏を返し、彼女の視線はそこに書きとめられた文字の羅列に吸いつけられた。
「空になりたい」
 ダイニングテーブルの脇に立ち、そう銘打たれた写真裏のメッセージを純は何度も何度も繰り返し読んだ。
 
 優秀作品の発表が行われたその日の展覧会は暖かな日和という条件も手伝い、ひそめた声もざわめきに変わるほどの盛況ぶりとなった。
 IT広告大賞選考委員会による授賞式も無事終わり、会場は華やかな雰囲気に包まれている。応募者の門戸を広く開いたプライズだっただけに受賞者の顔ぶれは学生が多く、あちこちでにぎやかな歓声が上がっていた。
「哲、6回目だぞ」
「何が」
「ため息の回数だよ」
 自らの作品パネルを掲げたブースの前で洋平はかたわらの親友に突っ込みを入れた。
 パネルには空を行くオオハクチョウの姿が焼き付けられている。左片隅には受賞作品であることを示すブルーリボンが飾られていた。
「こういうのは苦手なんだよ。なあ、もうネクタイ外していいか?」
 着慣れないデザイナーズ・ブランドの黒服に身を包み、固い皮靴を履いたいでたちの哲郎はぶつぶつ言った。但し小声で、であるが。
 洋平は目をむいた。由起子が見たら逃げ出してしまいそうな形相で彼は言った。
「俺達の快挙を見ろよ! 部門賞に加えて特別奨励賞だぜ! ……どうして不景気なツラしてため息つきまくってなきゃなんないのか、俺にはわかんねーよ」
 純が姿を見せないまま展覧会は最終日を迎えてしまった。彼女を振り向かせることができたのは哲郎の人生において大賞を取るよりも快挙と言えた。だが……。彼は7回目のため息をついた。
 先だっての夜の出来事を思い返すと青年のみぞおちはきりきり痛んだ。賞は取ったが、今後、何にレンズを向けるべきなのか哲郎にはわからなかった。第一、いい写真を撮っても一緒に見て喜んでくれる人がいないのでは話にならないではないか。
 洋平の方は由起子とうまくやっているらしい。厳格な彼女の父親がやっと交際を認めてくれたのだそうだ。今日の授賞式にも由起子の家族が顔を出していたことを哲郎は知っていた。それに比べ、自分の冴えないことといったらない。結局、彼はダシに使われただけの立場でありつづけていた。
「お、由起子が帰ってきた。何か収穫はあったかな」
 雑多な人ごみの中で頭一つ分突き出ているすらりと長身の女性の姿を洋平が目ざとく見つけた。三人の中で一番の年長者である由起子は急遽チームリーダーという役割を押しつけられ──もとい与えられ、ほとんどが広告代理店で占められているスポンサーと受賞者の集いというやつに狩り出されていたのである。
 上品なノーブルレッドのスーツを身にまとった彼女は多少化粧が濃いものの、感情をあまり表に出さない普段通りの顔でブースに歩を進めてきた。
「よっ、ご苦労さん。面倒な役目を押しつけて、悪かったな」
「ただいま〜。……なんのなんの」
 洋平のねぎらいの言葉に、無表情だった顔に微笑みが広がった。ファンデーションを透かして頬が色づいたのがわかる。
「作品の評判は上々よ。広告代理店のオジさんたちも結構気さくな感じだったし、食べものは美味しかったし。二人とも来ればよかったのに」
「俺もそう言ったんだけど、哲のやつがゴネてさあ。……ま、俺はどっちでも良かったんだけどさ」
 哲郎は無言だったが、そのげんなりした顔が彼の心情を如実に表していた。由起子は親友同士を見比べてくすりと笑った。洋平と哲郎に挟まれた立ち位置におさまると、彼女は細い声でぽそっと言った。
「哲くん。ここに戻ってくる途中ね、手帳の人に会ったよ」
「は? 何、手帳の人って」
「これ」
 由起子の表現はエキセントリック過ぎて時にいらいらする。そんな哲郎の様子に頓着せず、彼女は腕に下げたグッチのアクセサリーポーチから牛革製の手帳を取り出し、ぱらぱらとめくってとあるページを指し示した。
 そこには一枚の写真があった。手帳に綴じられたクリアポケットの中から雪の中に立ち尽くした純がこちらを見つめている。舞い散る雪を小さな身体に受けとめる澄んだ瞳の彼女はまるで雪の精のようだった。淡く染まった頬が撮影時に漂っていただろう甘い空気感を伝えていた。
「うわあっ!」
 彼は由起子に飛びかからんばかりにして手帳を奪い取った。きょとんしてとこちらを見ている彼女に哲郎は思わず食ってかかった。
「どうしてこれを由起子さんが持ってるんだよ?!」
「……いいの?」
「は?」
「早くしないとどこに行ったかわからなくなっちゃうよ?」
「……」
 さっぱり訳がわからないといった様子で口を開こうとする洋平を由起子は真顔で制した。哲郎の手帳を勝手に持ち出したことには多少の罪悪感があるらしく、彼女は慎ましやかに言葉を添えた。
「さっきはメインステージにいたけど。授賞式が行われたところ」
「……メインステージにいたって?」
「うん。だから、早く」
 途端に、すっ飛んでいきたい衝動に哲郎は駆られた。足を踏み出そうとして彼は二人の仲間を顧みた。
「何だかよくわからんが、……わかった。どーんとぶつかって来い。どーんと」
 洋平が意味不明なエールを送ってくれた。由起子はこくこくとうなずいている。
「ちょっと、行ってくる」
 哲郎は人ごみをかき分け、メインステージに向かって駆け出した。


 青い空を飛翔する白い鳥の姿。添えられた小さな散文詩。
 メインステージ脇の“受賞作品一覧”と大きく看板を掲げたコーナーの一画で、それらをじっと見つめる小柄な人影があった。
 厚手のシャツに薄茶のコーデュロイパンツというラフな服装のその人は一見、間違って会場に迷い込んできた小さな女の子のように見えた。彼女は時々、ちらりと腕時計に目をやりつつもなかなかその場を立ち去れないでいたが、やがて思い切るようにスニーカーの爪先を返そうとした。
 その時、作品パネルとパネルの間から黒い腕がにゅっと突き出たかと思うと彼女の腕をがっちり掴んだ。
「……!」
 続いて見知った顔がパネルの隙間から現れた。腕はパネルがかけられたパーティションの内側から伸びていたのだ。声をのんだ純──言うまでもなくそれは純だった──は次の瞬間、否応なくパーティションの内側へと引っ張りこまれた。
「いっ、痛いよ、星野くん。離して」
「嫌だ」
 純を引きずりこんだ腕の持ち主はすげなく答えた。それでも、彼の黒い上着の袖口を懇願するようにつまんだ彼女を見、哲郎は力をゆるめた。手を離した途端、いつものように彼女が逃げ去ってしまうのではないかと不安だった。
 純は彼に腕を取られたまま下を向いていた。哲郎に見つかってしまったことは計算の外だった。彼女は何とかぎこちない口を開いた。
「裏側は、こんな風になってるんだ」
 パネルがかけられたパーティションの内側に二人は立っていた。そこかしこにダンボール箱が無造作に積み上げられている。舞台裏の様相を呈する一方で、行き過ぎていく来場者の喧騒がすぐそこまで聞こえてきた。
「パーティションと鉄筋で組み立ててあるんですよ。プレハブみたいなもんです。出入り口には警備員がいるんだけど、一応、おれは出展者だから」
 彼は純の腕を掴むのをやめ、彼女の小さな手に自分の手を滑り込ませた。温かくて柔らかくて、ちょっと湿った感触に哲郎はほっと息をついた。その拍子に口から本音が転がり出た。
「必ず来てくれるって思ってた」
 対する彼女は落ち着かなげに視線を辺りに這わせた。その様子は胆大心小にメスをふるう凄腕の外科医とは思えなかった。確かに今ここにいる人物は医師ではない。
「……あの、受賞おめでとう。二つも賞を取るなんて、凄いな」
「ありがとうございます。でも、純のおかげだから」
「私の?」
 純と呼ばれたことに違和感はなかった。礼儀正しく頭を下げた哲郎を彼女は不思議そうに見た。
「北海道の空をあなたに見せたくて。あなたに見せようと思って撮ったんです。あの散文詩だって……」
 彼は照れ隠しにこほんと咳払いした。他人の──純の目にさえさらすつもりのなかった言葉がなし崩しに作品に使われてしまったことの説明は省き、哲郎は言を継いだ。
「だからあれは全部、あなたのものですよ」
「……」
「但し、これはおれのもの」
 そう言って彼は不恰好に膨れた上着のポケットから革の手帳を取り出した。めくったページから現われた自分の姿を一瞥し、純は顔を赤くした。
 写真の中の自分はごまかしようもなく恋する女の顔をしていた。彼女は観念してまぶたを閉じた。純は平静さを失いそうになったICUでの夜のことを考えた。彼は自分を助けた。今までに何度も。そして恐らくこれからも。
「私も、同じだったんだ」
「え?」
 手帳を元の通りポケットに収めた哲郎は呟きをかろうじて聞きとがめた。純は額に手をやって考え込んだがうまい言いまわしは見つからなかった。何から話したらいいのかわからないまま、彼女は口を開いた。
「私も、自信がなかった。星野くんに好きだって言われても、にわかには信じられなかった。
君はまだ若くて異性ってものを良く知らない。きっと星野くんは誤解してる。私に幻想を見てる。そう思っていた。
だから、君の気持ちにはっきり答えることは出来なかった」
「何気なくひどいことを言うなあ」
 そんな風に思われているとは知らなかった。彼は苦笑した。
「今もそう思ってるんですか? おれがあなたを好きなのは幻想だと?」
 彼女はかぶりを振った。
「人のことは言えない。私のこの気持ちだって幻想かもしれないんだ。 だけど、だから何だ……。そんなことは問題じゃない」
 純は爪先立つと、哲郎の唇に微かに触れるだけのキスをした。ややあって床に踵をつけ、彼女は恥ずかしそうに彼の胸に頭をもたせかけた。
「許してくれ。仕事柄、何でも理詰めで考える癖がついてるんだ。
怖かったっていうのもある。君に気持ちを打ち明けた途端に笑われてしまうんじゃないかって」
「わ、笑うわけないでしょう? 笑うどころか心臓がばくばく言ってますよ。心拍数、いくつかな。ほら……」
 彼はネクタイを緩め、シャツの内側に純の手を滑りこませた。が、彼女が頬を染めて気まずそうに黙っているのに気づき、哲郎はあせって手を引っ込めた。
 ああ、そうか、と思った。そうなのだ。純にとって自分はもうクランケではない。そう思うと雲の上でも歩いているように足元がフワフワした。彼は上の空で呟いた。
「……純からキスしてくれたのは、初めてだよね」
 彼女の両肩に手をかけ、血気にはやった青年は早速、桜の花びらをむさぼろうと目を閉じた。が、不意に甲高い電子音が鳴り響き、彼は遠慮がちに身体を押し戻された。
 純は深呼吸した。唇を引き結ぶと静川医師は胸ポケットから携帯電話を取り出し、アンテナを伸ばして通話ボタンを押した。
「もしもし、静川です。どうしましたか」
 聞き慣れた口調だった。哲郎の眼下で医師としての自分に立ち返った純は何度も相槌を打った。
「今、出先ですので。……わかりました、これから戻ります。はい。……はい、失礼します」
 通話を切り、ホワイトシルバーの携帯電話を胸ポケットに戻すと彼女は肩をすくめて見せた。
「外科部長からのお呼び出し。実は午後のカンファに出ることになってるんだ。もう行かなきゃ」
「うん……」
 あからさまにため息をついた彼を見、純はそばかすの散った鼻にしわを寄せて笑った。
「君とキスした日はよく眠れるんだ。だから……。今度会った時、お願いするよ」
 医師なのか、それともただの純なのか。どちらとも判然としない口ぶりで彼女はそう言うと、会場の表舞台へと戻るべくパーティションとパーティションの隙間へと素早く身体を滑り込ませた。
「純!」
「じゃね」
 ちらと振り返り、純はにやっとしてみせた。次の瞬間、哲郎の視界からその姿は完全に消え失せていた。
 やっと捕まえたと思ったのに、彼女はあっという間に腕をすり抜けて行ってしまった。唇に残る感触を彼は指でなぞって再確認した。認めるのは口惜しいが、これっぽっちのことがたまらなく嬉しかった。惚れた弱みというやつだ。
「しょうがないよなあ……。医者、それもとびきり腕利きの外科医がおれの好きな人なんだから」
 今日、何度目かのため息をつくと哲郎はもと来た方角へと足を向けて歩き始めた。ため息とは裏腹に、オオハクチョウが飛翔する空のように彼の顔つきは晴れ晴れとしていた。
 
「だって、あんまりいい写真なんだもん。哲くんが一人で眺めてるだけじゃもったいないと思って」
「だからってな。無断でこっそり持ち出して、挙句に広告代理店の親父たちに見せてまわるか? フツーしねえぞ。そんなこと」
 ブース脇に置かれたパイプ椅子に腰掛け、由起子の話に耳を傾けていた洋平は呆れた声を上げた。
 作品を眺めつつ多くの人々が目の前を通りすぎていく。時折、声をかけてくる客人の応対には由起子があたった。名刺を受け取って丁寧に頭を下げた後、洋平の傍らに戻ってきた彼女は化粧板が貼られた鉄筋の柱にもたれかかった。
「哲くん、怒るかな」
 心細そうに呟く由起子の様子に、しょーがねーな、と彼は笑った。一見、突飛な行動様式が彼女の欠点であり、愛すべき点でもある。
「そんなにヘコむなよ。一緒に謝ってやるから」
「……ありがと、洋ちゃん」
「お? 噂をすれば。帰ってきたみたいだぞ」
 洋平は上半身を伸び上がらせ、ややうつむき加減で歩を進めてくる親友に向かって手を振った。
 人の波をかき分け、ゆっくりと自らのホームグラウンドに帰還した哲郎はやおら由起子の眼前に立ち尽くした。
「何? 哲くん……」
 何やら思いつめた様子の青年を彼女はおびえたように見た。
「……ありがとう。本当にありがとう、由起子さん。由起子さんが教えてくれなかったら、おれ……」
「……ど、どうし……?!」
 唐突に哲郎は彼女の両手を取り、握り締めた。最初は驚いたものの、彼の輝く瞳に気づいて由起子の顔にもぱっと笑みが浮かんだ。
「会えたのね? 手帳の人に」
「うん、会えた。無事会えた。ちゃんと話して、その……気持ちを確かめてきた」
「あたし、役に立ったのね? 良かったあ〜」
「おい、取り込み中だけどな。哲! 由起子は俺の女だぞ。そうみだりに触るな」
 哲郎は声を上げて笑うと彼女とつないだ手を前後にぶんぶん振って見せた。これで貸し借り相殺だな、と洋平は心中で換算した。この振る舞いの後で写真を人に見せて回った位のことをとやかく言ったりはするまい。彼は口ぶりだけは重々しく口を開いた。
「さっき巡回スタッフが言ってたんだが、どうも主催者側で男手が不足して、有志を募ってるらしい。行くか? 哲」
「おう。今なら何でも、舞台のモニュメントだって一人で持ち上げられそうだ。行ってもいいぞ」
 彼はネクタイを取り、上着を脱いでパイプ椅子に投げた。よく言うよ、と口に出そうとして洋平は考え直した。多少おっちょこちょいでも、浮世離れしていても、さっきのため息ばかりついていた哲郎よりはマシだった。洋平もまた哲郎にならって上着を脱ぎ、由起子に手渡した。
「じゃ、ひと働きしてくるか」
 二人の青年は展示会主催者の事務局ブースに向かって悠々と歩き出した。歩を進めながら哲郎は次にフィルムにおさめたいもののことを、どうすればそれを説き伏せ、承諾させることが出来るかを何とはなしに考えていた。

『役に立たない医療用語解説』『ドクター・ピュアガール マニアックス[2]』







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    −ドクター・ピュアガール[2] 空になりたい− 著者:冨村 千早 脱稿:2003.2.9

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    この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。